六月最初の日曜日に、悠史の両親を招待して軽くホームパーティーをすることになった。

今日はその準備も兼ねて買い物に出ていた。
なにせ、結婚してこの小さな2LDKの部屋に自分たち以外の人が集まるということは初めてのことで、スリッパなど買い揃えなければならないものは多かった。
できたら私の両親にも来て欲しいと思ったが、スケジュールがなかなか合わないので、悠史の両親だけを招待することになった。

変更になる可能性もありつつ、当日のメニューを考えて、それにあわせて必要な食器もカートに入れていく。インターネットで買えばという悠史は私よりずっと現代っ子だ。手に取って選んだほうがいいの、と私は言って、1人で買い物にでかけた。彼は荷物が多くなるなら車を出すよ、と言ってくれたが、私の買い物は時間がかかるだろうし、貴重な彼の休日を食器や日用品を買うのに付き合わせるのも気がひけた。一人で訪れた百貨店の食器フロアで買うつもりのなかった青いガラスの器があまりにもきれいで、思わず手を伸ばしてみて、本当にそう思った。手にとって確かめて選びたい、決めたい。

ちらし寿司などのハレの日のメニューは食べ慣れてしまっているだろうし、悠史の母親の料理のほうが間違いなく上手だから、と思って、ちょっと目線を変えてスペイン料理にした。
ホットプレートで作るパエリアは大人数で集まるときだからこそできる料理だと思う。パエリアが出来上がるまでの時間をつなぐピンチョスには、オリーブやミニトマト、チーズなどをごろごろと載せて、定番のスパニッシュオムレツもそら豆を入れてこの季節らしく仕上げ、白い大きなお皿に並べた。マッシュルームににんにくと生ハムを詰めてオーブンで焼く料理は悠史に何度か食べてもらったことがあり、自慢の1品だった。
あとはオリーブを小皿に載せて、デザートにはこのシーズン最後となりそうなイチゴのマリネとバスク風のチーズケーキを焼いて用意しておいた。

いくつもの料理に義両親は笑顔を見せてくれた。それだけで満足だった。善良な彼らを私は悠史がいなくても好きだと思う。

「ところで結婚式ってどうなっているの?」

デザートを運んだ頃に、悠史の母親が言った。突如、空気が固まる、という感じがした。
結婚式についてはゆっくり考えるということで、先に入籍と同居することを許可してもらったのだ。公に嫁として妻として、周囲から認められる最初で最後の大きな場面であることを、同じ女性として義母は誰よりよく知っていた。

「忙しくても、職場の人をご招待したり、色々しなくちゃでしょう?」

そのことだけど、と悠史がすぐに口を開いた。

「結婚式は特にしなくていいかなって話し合ったんだ。繭子も今は勤めていないし、招待したい人も特にいないしって」

同意を求めるように悠史は私を見て微笑む。心は何かの矛盾を感じながら私も同じような顔つきで微笑んでみせた。義母は何言ってるの、とすごい剣幕で言った。

「あなただけのことじゃないのよ。繭子ちゃんだって、繭子ちゃんのご両親だってどれだけその日を楽しみにしてきたことか。一生に一度なんだから。面倒かもしれないけど、きちんとすることが大事よ。準備は私たちも手伝うし、簡単な式でもいいじゃない。しない、ということは、認めません」

悠史は冷静なままですぐに言い返す。少し笑顔にも無表情にも見える顔つきで、淡々と言った。

「二人で話し合ったんだ。今はとにかくする気がない。俺もちょうど仕事が忙しいし、結婚式なんかより新しい生活を大事にしたいんだよ。」
「結婚式なんか、ということはありえません!」

殺気だった声で義母が言うと、義父はなだめるように声をかけた。

「仕事が忙しいのもわかるし、結婚式の大切さもわかる。全部を急ぐ必要はない」

同意を求めるように義父は全員に微笑んで見せた。まあまあ、という義父と目が合うと私はこの場で誰より優しい顔つきで微笑んだと思う。
悠史の仕事が忙しいこと、結婚式はしなくていいと二人で話し合ったこと。そこに何一つ嘘はないはずなのに、まるで嘘をついているみたいに苦しかった。
デザートに用意したこの春最後のイチゴは、八百屋さんイチオシという立派なものだったはずなのに、イマイチだった。

悠史の両親が帰ってから、悠史と片付けをした。彼はダイニングテーブルの上の食器を流しに持ってくるだけだったが、それだけでも片付けがスムーズだった。
食器を洗い終えると、悠史はテーブルを拭いていた。

「いいのに、そんなことしなくても。私がやるわよ」

ガラスのテーブルを丁寧に磨く彼の姿が微笑ましくて、思わず笑ってしまった。
悠史は気になるととことんやりたいんだと言う。黙々と作業をする室内は、音楽がないけれど、寂しくもなかった。一人ではないからだと思った。

「終わったら、1杯飲もう」

テーブルの脚を丁寧に、念入りに磨く彼の言葉に、私はもちろん、喜んで、と笑って返事をした。
冷房の空気に疲れてベランダの窓を開けた。湿っぽくて生ぬるい風が日本の夏を感じさせて、妙に気持ちよかった。
クセのないまっすぐな彼の前髪を夜風が少し揺らした。ふと指で整えてあげようかな、と、思うような柔らかい毛先に、彼の近くにいたいと切望した女の子たちのことも思った。

「結婚式、したかった?」

お気に入りの甘い香りのバーボンソーダを口に運びながら悠史が言った。

「ううん、べつに。」

ベランダの向こうのどこかを見ながら私は言った。
彼と同じバーボンソーダにレモンを絞りながら、悠史には邪道と言われつつ、私は彼の隣でお揃いのグラスを口につけた。ウィスキーは、種類にもよるけど、レモンを入れた方がずっとおいしい。特にこんな蒸し暑い夜は。遠くでたぶん白鳥座のデネブと思われる星が強く光っていた。
彼の横に並んでその横顔を見る。目が合うと互いにふっと笑ってしまった。

「面倒なことが嫌いなのは一緒よ」

本心だった。そんな私の言葉を聞いて悠史も笑った。でもどこか申し訳なさそうだった。

「男と女じゃ、結婚式の感覚も違うよな」

遠い空を眺める彼の視線はどこにあるかわからなかったが気持ちを汲もうとしてくれることが嬉しかった。一人っ子の彼は女性の気持ちはあまりよくわからないそうだ。

二人で並んでベランダから東京の夜景を見た。スカイツリーもレインボーブリッジも見えない、でも私も悠史もこの穏やかな街並みを愛しつつあった。

「結婚式は、したくなったらいつでもできるわ。来年でも、再来年でも、おじいちゃんとおばあちゃんになっても」

そういうと、遠くに瞬く星はいっそうまぶしく力強く見えた。手の届かない未来がぐんと近くにあるように錯覚してしまう。お酒の勢いで口にしてみたものの、悠史がどんな気持ちになるか、どんな反応をするか、急に不安になる。おじいちゃんとおばあちゃんなんて、想像できないほど遠いところにある。そのとき何をしているかなんて、正直、考えたくもない。一緒にいないかもしれないし、そのときまで生きていないかもしれない。未来は夜の闇のように暗くて恐ろしくもある。でも悠史は、今の私が一番欲しかった言葉をくれた。たった一言、呟くように、でも確かに。

「そうだね」

平然と、ごく普通に。日常の会話の続きのように。昔と何も変わりないように。それがたまらなく嬉しくて、私は夜に隠れる程度に静かに笑った。

結婚式のことも子どものことも、私たちは先延ばしにしていた。手の届かない未来に放り投げて誤魔化していた。それでも今の二人の暮らしに納得していた。