智との待ち合わせ場所は銀座のヤマハ。欲しい楽譜があるのだと言う。インターネットで何でも取り寄せることのできる時代だが、自分で手に取って買うことが大事だと彼は言う。
だいたいの時間をめがけて店を訪れるとすでに目的の楽譜を手にしていた彼を見つけた。

「久しぶり、お待たせしたかしら」

そう言って軽く振った左手の薬指には悠史との誓いの指輪が光っていた。この指輪をつけて智に会うのは初めてだった。智は、私が結婚する予定だったことも、結婚したことも知っている。
智は見慣れた懐かしい笑顔を見せてくれた。

「私も少し買い物していい?」
「もちろんどうぞ。」

そんな会話をして、店を出たのは待ち合わせから20分ほど過ぎた午後二時前だった。お茶をしようと、カフェに入り、ようやく一息つく。

「新しい生活はどう?」
「初めて実家から出たけど、うまくやってると思うわ」
「そう、元気そうでよかった。僕も順調だよ。今度、市民楽団とだけど、コンチェルトの機会をもらったんだ。あと、来月月刊誌にちょっとインタビューが掲載される」
「すごいわ。絶対チェックする」

恋人同士のように嬉しそうに楽しそうにおしゃべりをする。でも恋人同士ではない。私たちには未来の約束は一つもない。
ただ彼の演奏するピアノ音色が好きで、時折、練習相手になってもらったり、こうして食事やお茶をしたりするだけの関係で、でもこれ以上近づかないからこそ、適度に気を遣いあって快適な関係を築いていると思う。
近づきたいと思う心がバランスを崩し快適さを奪ってしまうから。

会社員などのように社会の荒波に揉まれきっていない智は実際の年齢の30歳......同年代の悠史より若々しい感じで、好青年という言葉がよく似合う。彼のリサイタルには観客のほとんどは女性だ。本当に演奏を聴きたくて来ている人だけではないように思えた。私も、智との未来を思い描かなかったわけではない。
大学時代の友人の紹介で、まだ彼が大学院生の頃からこうして会ったりお茶を飲んだりしているが、音楽家として大成することの難しさは、彼も私も、私の両親も友人も、みんながわかっていた。
やがて彼が2年だけだがフランスに留学することになり、そうしていくうちに気持ちは落ち着いていった。そして周囲の声を聞いて諦められる程度の想いだった。ただ光栄なことに、帰国した後も出会ったときのままの関係が続いている。その美しい音楽を奏でる手に触れたことはない。智はたぶん、友人の一人にしか思っていないだろう。彼には今、ドイツに留学しているヴァイオリニストの恋人がいるそうだ。私たちは本当に友人になったのだ、と思う。

それでも居心地がいい。彼に会うために洋服を選び、口紅の色を悩み、前夜はパックをして、ランチは軽く済ませて出かける。ガレットでもワッフルでも、ちゃんと胃袋にスペースをあけて目の前のものはおいしく食べられるように、笑顔が消えないように、かわいらしい女の子としていつも智の目に映るように。きっと5年後も10年後も、智に会うときはそうしていると思う。


「忙しかった?」
その夜、食卓の上に並べられたカセットコンロと鍋を見るなり悠史が言った。
「どうして?」
「時間がないときは鍋に限るって言ってたから」
「ばれちゃった。ついつい長くお買い物しちゃって」
銀座に行くことは言ってあった。欲しい楽譜があると。智のことは話していない。
しかし、桜も咲いて暖かくなってきた4 月初めに鍋というのは少しシーズンオフな感じがする。それも水炊きのようなシンプルな鍋、言ってしまえばいかに手を抜いているかがわかってしまう。
「目的の楽譜を買ったわ。それから明日の朝食のパンと、食後のデザートもあるの。チョコレートも買ったから、もしよければウィスキーと」

笑って、ありがとうと悠史は言った。明日の朝はいつもより甘いパンを食べ、チョコレートはたぶん週末の夜にでもつまんでくれると思う。体脂肪を気にして、食後のデザートの甘いムースは食べてくれないかもしれないが、せめて、できたら、今朝はなかった薔薇の花がリビングに飾ってあることにも気づいてくれたらいいのになと思う。

「楽譜か。いいね。何か弾いてよ。まだ大丈夫でしょ」

大丈夫というのは、時間だ。楽器が許可されている部屋であるとはいえ、真夜中の演奏は控えるのがマナーだ。時刻はまだ八時台。ギリギリOKの時間だろうか。
本当なら、人に聴いてもらうことは嬉しくない。すごく怖いことだ。手は固くこわばる。私は自分のために演奏するときが一番好きだ。気楽で、好きなように弾いてよくて、間違えても途中でやめても問題なくて、いつだって自由。それを言うと、悠史は言った。

「俺のことは空気だと思えばいいから、好きに、自由に弾いて」

空気なんて思えるわけがない。聴きたいと言ってくれるなら、ちょっとでも一生懸命弾きたいなと思う。求めてくれることに応えたいと思ってしまう。

楽譜を出して、ジュトゥヴを弾く。あなたの病院の保留音よ、というと彼は笑った。なんでその曲?と言って。他にレパートリーがないこともあったし、知っている曲のほうが楽しんでもらえると思ったのだ。

ミソレ、で始まる穏やかな音色にのせて演奏を始める。リズムをとりたくて、鍵盤を叩く指先とともに少し体は揺れる。まるでワルツを踊っているみたいに右に左に、ステップを踏むように軽く、ピアノにリードしてもらって私の指は踊る。

‘君が欲しい。同じ愛の夢の中で、僕たちは魂を交換しよう’

アンリ・パコリの詩。

穏やかな日常。未来の約束をして生活を分け合って、いくらでも衝突がありそうで、あってもいいはずなのに、淡々と続いてゆく。魂をぶつけ合って交換できるほどのことはない。
同じ愛の夢とは何かと聞かれたら、答えられない。激しく求めたり、求められたりは、ここにはなかった。

それでもサティの音楽は少しも苦しくないからありがたい。
弾き終えて彼を見る。見慣れた懐かしい、温かい笑顔で、私に拍手をくれていた。