平日、朝八時。この時間にちょうど悠史は起きてくる。

一番最初に口にするのはスープかお味噌汁。最後の口にするのはブラックコーヒー。
献立は卵料理とパンかごはん。パンなら洋風のスープ、ごはんならお味噌汁。それと野菜料理が1品あるといいと言われた。ほうれん草のお浸しとか、切っただけのトマトとか、そんなのでもいいと。あとは果物とヨーグルトをデザートに出す。残すときもあるが、栄養バランスについては本人もわかっているようで、なるべくどちらかは食べるようにしている。本当は果物も乳製品(料理に使われるものを除く)も、彼がたいして好きでないとわかりながら出している。それに気づいていて少し文句を言いながらも一口は必ず食べる彼に笑ってしまう。

「今日、何すんの?」

食後のコーヒーを飲みながら彼が聞いた。これもまた日課のようなものである。

「母親と会う予定よ。美術館に誘われたの。印象派の作品展。」
「へえ、いいね。楽しんできて」
「ありがとう。夕食は何がいい?」

飲み終えたコーヒーカップを置いた彼は、なんでもいいよ、と言って席を立った。いつもそうだった。なんでもいい、は気楽だけど困る。自由ゆえの不自由さ。そのことを悠史は知っているのだろうか。働いても働かなくてもいい。家事はしてもしなくてもいい。帰りは待っても待たなくてもいい。好きにしていいと言われていても、結局、勤務医の彼のペースに合わせて生活をしてしまう。彼に寄り添うだけになるのは怖いとわかっている。


九時少し前に彼を見送った。慣れてきた日常のワンシーン。変わらない一人の一日の始まりだった。洗い物をして洗濯機をまわし、掃除機をかける。洗濯物を干したらもう十時半だ。いつもならコーヒーでも飲んで、ピアノを弾きたいところだが、今日は急いで支度をして電車に乗る。それでもきちんと化粧をしてピアスをつけ、ワンピースなんて来てオシャレをする。それは母に対しての礼儀だった。左手の薬指には届いたばかりのきらきら光る指輪をはめた。

待ち合わせ場所にいた母は、たった1か月ぶりだというのに少し老けてみえた。生活が変わったのはお互い様だった。
雑踏の中でお互いに見つけ合って微笑み合う。

「お待たせしてごめんね。」
「ほんの1、2分前についたばかりよ」

母は上品なパールのネックレスと春らしいベージュのカットソーがよく似合っていた。

「ゴッホの初来日の作品が楽しみなの」

母は本当に嬉しそうにした。よかった、と思う。私に会うためだけに上野まで出てきたわけではないのだと思うと。きちんと目的があって、母には多くの楽しみがあり、ついでに私を誘ってくれたのだと思うと、家を出た娘としても幸せだった。

平日とはいえ決して空いているとは言えない美術館は、見ごたえが十分だった。そのあとにあんみつ屋に行った。この流れは母と上野で美術館やコンサートに行った後にいつも訪れるお決まりのコースだった。店内に入るまでに少し並ぶが回転率がいいのもこの店のよさで、5分程で席に案内された。

「お兄ちゃん、子どもできたんですって」

注文したあんみつが出てくる前に、熱い緑茶を啜りながら母が言った。

「咲さん、妊娠したの?」
「そうみたい。まだ三か月だけど、すごく喜んでて、お兄ちゃん、わざわざ電話してきたの」
「そう、おめでたいね。欲しがってたもんね」

四歳年上の兄は、大学時代からずっと付き合って結婚した女医の咲さんという奥さんがいる。家庭に入らないで働き続ける彼女を両親は心配したこともあったが、互いにこの人しかいないという強い気持ちで二人は結婚し、待望の赤ちゃんを授かったようだ。

「あなたたちは?」

そう言われたタイミングでちょうど注文したあんみつが目の前に出される。店員に会釈して二人であんみつを黙々と突ついた。
母は、本当はすべてを知っているのではないかと思う。
すべてというのは、私と悠史が本当に男女として愛し合って結婚したわけではないということだ。

「まだ結婚して一か月ちょっとよ。そんなこと考えてないわ」
「そんなこと、じゃありません。大事なことよ」

母はいつになく真面目な顔で言った。

「体力的にも早いほうがいいのは間違いないわ。子どもができにくいなら早めに対策もできるし」
「私たちは子どもが欲しくて結婚したわけじゃないから」

そういうと、母はじゃあ何のためにとでもいうように怪訝な顔をした。

「きちんとしているから安心して。簡単だけど料理もしてるし、彼も喜んでくれてる。食事も一緒に取るようにしてるし、会話もたくさんある。仲良くやってる。大丈夫だから」

半分溶けたソフトクリームをスプーンですくう。溶けたクリームの白い液体がこぼれていく姿が泣いているようでむなしく見えた。
先に食べ終えた母が言った。

「何かあったら必ず母に相談すること。約束して」

もちろん、と私は嘘みたいに美しく微笑んで言った。理想的な娘の姿として。

その日の夜、悠史はいつもより三十分程遅く帰ってきた。
温めなおしたスープは若干煮詰まって味が濃くなったが、疲れた体に塩気がちょうどいいでしょ、というと彼は笑った。

兄に子どもができたことは特に言わなかった。ゴッホのポストカードを見せ、その素晴らしさを語り、季節限定の桜あんみつのおいしさを伝え、母と笑顔で別れた話をした。
本当は聞き流しているかもしれないが、悠史は私の今日の出来事を笑顔で聞く。うん、うん。それで?どうしたの?と、こちらが話しやすくなるように誘導してくれる。会話が楽しいものだと錯覚してしまう。

「俺に女の子が集まってくるのは、医者だからだよ。」

いつだったか悠史は皮肉たっぷりにそう言った。でもそうじゃないと思う。
きっかけは、彼のルックスや職業もあるかもしれないが、彼と本当に付き合いたいと思った女の子たちは、こうやって話をする時間、一緒に過ごす時間を心地よいものだと感じたからに違いない。華やかで美しい女の子たち。愛されるための努力を惜しまなかった彼女たち。何がいけないということもなかっただろうに、自分を好きにならないという条件を受け入れた女を妻として迎えた彼の本当の気持ちはどこにあるのだろう。何年も友達でいたはずなのにわからない。
それでも食後のコーヒーは昨日と同じように苦くておいしかった。

「明日は夕食いらない。遅くなる。」

飲みに行くのか、仕事の研修でもあるのか、はたまた製薬会社の接待か。わからない。その言葉を聞いた次の瞬間から一人になる。
スケジュールを把握したり調整をお願いしたりすることはあっても、彼は干渉されることや束縛を嫌う。だから詳しく予定を聞いたり、詮索したりしない。自由でいたい人なのだ、と思っている。

「それじゃあ、私も誰かと飲みにでも行こうかな」

外に遊びに行くのが楽しみよ、とでもいうように私は微笑む。彼は、いいんじゃない、と笑っていた。鈍い私は、きっと悠史の嘘も本当もわからない。だから目の前の彼の上がった口角を、少し垂れ下がる目じりを、その微笑みを信じるだけだった。