悲しいジュトゥヴ


翌朝はいつも通りの時間に食事をした。目玉焼き、トースト、人参のスープ、ハムとレタスのサラダ、それからヨーグルトにブルーベリーをのせて、食後のコーヒーもきちんと飲んだ。ただ、今日は何をするの、とは聞かれなかった。特に予定なんてなかったけど、聞いて欲しかった。

もしも一人になったら、こんなふうに朝食を用意することも片付けをすることもないんだ。決まった時間に起きなくちゃとか、そんなことを思う必要もなくなるんだ。きっと両親は帰っておいでと言って、実家で再び一緒に暮らすことを歓迎するだろう。そうしたら、料理も洗濯も掃除もたいしてしなくてよくなる。母も家で過ごすことを好む人だから、1人きりで誰かを待つということもなくなるだろう。寂しくないはずなのに、そんな自分を想像して、とてもつまらなかった。

いつも通りの午前九時少し前、台所で洗いものをする私の後ろから悠史が言った。
「行ってくるよ。」
行ってらっしゃい、と洗いものをしながら返事をすると、まだそこに気配があったので振り向いた。
どうしたの?と言って悠史を見ると、少しだけ気まづそうにしながらも、身なりを整えた彼はまっすぐとこちらを見て、堂々と、そしてはっきりと言った。

「夕食、いつもより少し遅くなるかもしれないけど、二十一時には帰る。必ず。だから、待っていて。一緒にワインを飲もう。料理は、それにあわせてよろしく。チーズも」

そしてほんの三秒ほど私を抱きしめた。
それは本当に一瞬のことで、でも強く、私を確かめるように、とても熱く、永遠に忘れられない瞬間だった。そして少しだけ照れ臭そうに笑って見せると、すぐに彼は扉の向こうに行ってしまった。

私はセリフを棒読みするように行ってらっしゃいと言って、目を丸くした。まだ熱い感触が残っていた。こんなにしっかりと抱きしめられたことは、待っていてと言われたことは、初めてだった。私は驚きつつ、聞こえていないかもしれないと思いながら再び行ってらっしゃいと言った。

夕食にワインを飲もう。ワインを、飲む。ワイン。チーズも。ワインに合わせた料理とワインとチーズ。

ワインとチーズという単語が、忘れてはいけないキーワードのように頭の中でリピートされる。
たいしたことじゃないはずだ。今夜一緒のベッドで寝ようと言われたわけでも、永遠の愛を約束されたわけでもない。
それなのに、帰ってくると言われただけで、待っていてといわれただけで、もう、私にはその瞬間のために何があっても生きなければ、と思えてしまった。

そのくらい重大なことだった。何もかもが違って見える。すべての色彩が色濃く、鮮やかで、まぶしかった。世界がきらめいていた。それがすべての答えだと思った。

リビングに置かれた小さなワインセラーには気軽に飲むにはちょっと惜しいワインが何本かあった。結婚祝いに友人たちからプレゼントしてもらったまるで初恋のようなロゼのシャンパンもある。それに決めた。それにあわせて何を食べたい?メインは肉かお魚だったらどっちがいい?デザートは旬の桃でいい?そんなことをいちいち聞きたくて、いてもたってもいられなくて、ついに午後、電話をする。

病院に電話すると受付の人のいつもの明るい声で、お待ちくださいねと言われて、プッとボタンが押される音が聞こえると保留音に切り替わる。

やがて彼は何も知らない様子で「はい、高澤です。」と平然と対応するだろう。変わらない、スタンダードな挨拶。私の声を聞いてちょっと驚いて、でも電話の用件を聞いたらそんなことで職場に電話してきたの?と、ごく普通に対応しながらも、彼は少しだけあきれるかもしれない。
でも大事なことだったのと私は訴える。毎日欠かせない。あなた以外に考えられない。あなただって、そうでしょう?友達とか夫婦とか、関係なんてどうでもいいくらい、私のこと特別でしょう?

受話器の向こうから求めていた彼の声が聞こえるまで、たぶんあと十秒。
待ち遠しい気持ちで受話器にぴったりと耳を押し付ける。明るく軽快にサティのジュトゥヴが響く。

本当はいつだってあなたが欲しかった。
なんて悲しく、幸せなことだろう。