悲しいジュトゥヴ

家にいることは好きだった。
いつでもピアノが弾けたし、掃除も洗濯も料理も楽しんでいた。一日中家にいても少しも苦ではなかった。

しかし休日さえも大半を家で過ごす私を心配したのか、悠史が出かけようと誘ってきた。
思いがけない誘いだったので義両親との約束でもあるのかと聞くと、彼は「違う」と言い、早く支度してと笑って私を急かした。

彼の運転する車の助手席に乗ることは久しぶりだった。どこへ行くの?と聞くと、横浜、と、彼は嬉しそうに言った。

横浜まで行くのは久しぶりのことだった。横浜は独特の時間が流れている。港町で、海の匂いがして、中華街に洋館に、異国情緒も溢れているからだと思う。
私はこの町が大好きだった。悠史もそれを知っているはずだ。悠史と来るのは三回目だった。

最初は、互いに大学生の頃、それぞれの友達を連れて、悠史が運転して、みんなで中華街を食べ歩きして、手相を見てもらって、悠史が「あなた、めったにいない変人ね。」と言われたことを大笑いしながら夜景を見てドライブして帰った。

二度目は、ほんの10か月くらい前だった。結婚しようと決めて、品川のホテルでそれぞれの両親たちと集まって食事をして疲れたねと言って、二人で話がしたいと思って、夜の九時を過ぎて横浜に向かったのだ。帰りたくない、という気持ちをお互いが持っていた。

それはいわゆる男女の関係、抱きたい、抱いて欲しい、一緒に眠りたい、そんなことではなかった。ただやがて同じ家に帰ることになるだろう未来を想像して、それぞれ今はまだ別の家に帰らなければならないこと、まだ帰りたくない気持ちを抱えて、夜中ドライブと会話を楽しむこと、家まで送り届けてもらうことは、このときしかできない貴重なことだと二人ともが感じていたことだった。

もちろんそんなこと、言葉にはしなかった。ただ、今日は疲れたねとか、結婚って面倒だねとか、それでもお互いの両親が友人だからラクなほうだよなんて励まし合いながら、みなとみらいの観覧車やホテルの夜景がまばゆく光っていたことを覚えている。窓を開けさせてもらうと湿っぽい海の匂いがした。懐かしい匂いだった。


横浜に向かう車の助手席で、夏の強い太陽の日差しを受けながら、一瞬だけ海が見えたときに、大学生のとき来たよね、と私は言った。覚えている?と聞くと彼はうんと首を縦に振った。10年、あっというまだ。と言って。

やがて見覚えのある街並みが見えたとき、10年前の幼い自分と、数か月前の自分を思い出して、ふと思う。
結婚という、大人の階段を登ろうとすることが、もしかしたら私には少し怖かったのかもしれない。でも二人で横浜に来れて、過去と未来とつながっていくみたいに、たいしたことではないように思えた。でもたぶん、悠史じゃなかったらもう少し結婚が不安だったかもしれない、と、たまに思う。あの横浜の二人きりの夜を思い出すとき。

今年何回目かの猛暑日の予報に違わぬ強い夏の日差しの下、山下公園近くのパーキングに車を止めて、中華街の門をくぐった。

「ランチってこれ?」
「そう。たまには楽しいかなって」

日曜日の混雑した中華街の人込みの中で少年のように無邪気に彼は笑った。
食べ歩きのランチなんて、久しぶりだ。大人になると、ついつい小洒落たレストランばかりになってしまうから。歩くとわかっていればもう少し歩きやすいサンダルを選んだだろうにと思いながら、ほどよい歩調で前をゆく彼の後をついて行く。
時折、私のことを気にかけて振り向く悠史の笑顔は、手をつないで歩いてもらうよりよっぽど安心したし、嬉しかった。

10年前と同じ焼小籠包の店、分け合って食べる大きな肉まん、ゴマ団子。10年前に訪れたときよりずっと小食になった私たちはすぐにおなかいっぱいになって、大通りからそれた小さな中国茶のカフェに入った。
マンゴーのかき氷がおいしそうだったが、悠史が「夕食の分、胃袋あけておいたほうがいいよ」というので、やめた。

「このあと、手相を見てもらう?」
向かい合って小さな茶器でジャスミンティを口に運ぶ彼に言った。
「やめとく。変人って言われるだけだろうし」
かつて占い師にそう言われたことを覚えていたのだなと思って、私は笑った。
「私、30歳くらいで結婚って言われたの。当たったわ。手相で未来ってけっこう読めるものなのかも」
悠史は私の発言に少しだけ笑ってみせて、それから淡い薄茶の液体って窓の外を見て言った。
「未来なんて、知らなくても生きていけるよ」
その言葉に納得できるようで、できないようで、もどかしかった。未来に保証があったらとか、間違いのない道を選べたら楽だろうなと思うことは、幼いころからしばしばあったから。

ディナーは、船の上だった。山下公園から出発して、横浜の港を一周する。海の上から見るみなとみらいの夜景はたまらなく贅沢で非日常で、時間を忘れるという表現がぴったりだった。湿った夜風、海の匂い。悠史は私の知らない女の子たちと、何回こういうデートをしたのだろう。とたんに夜風が冷たく感じる。
きらめく夜景がまぶしすぎて、私は思わず目を細めた。

横浜を22時過ぎに出た。少しだけ道は混んでいたがひどい渋滞に遭遇することもなく、スムーズな帰り道だった。

車の中は本当に二人きりで、家で過ごすときと違って会話くらいしかすることがなかった。都内に入った頃、一通り楽しかった一日を振り返った私は言った。

「食べ歩きに山下公園散歩。ディナークルーズに夜景を見ながらのドライブで帰り道。絵にかいたようなデートプランね」
「ご満足ですか?」
ふざけた調子で悠史が言った。
「女の子を喜ばせるのが本当に上手だわ」
ガスウォーターだけの彼と違ってワインをいくらか飲んだ私は軽いアルコールの力を借りて皮肉めいたように言った。そんな様子に気づいてか気づかずか悠史は穏やかないつもと変わらない口調で言った。
「この車に乗せたのは繭子だけだよ。」
食事は行くけど、と付け足した。
女の子たちって、ご飯連れて行ってとかすぐに言うから。看護師の子たちも、いい子なんだけどね。
まるで今日の天気の話でもするみたいに平然と彼は言った。同じトーンで返そうと思いながら、口調は少し重かった。
「別にね、食事くらい」
そうだ、食事くらい私と智だってする。なんなら智の家にも行く。それくらいのこと。たいしたことはない。それなのに泣けてきた。
口にしてみて、みじめでたまらなかった。自分の言葉に自分で納得していないことに気づいてしまったから。

楽しかった今日はすでに遠い過去のことになっていた。
車が自宅前についたとき、その様子に気づいた悠史が私の顔を覗いた。
私の前髪を丁寧に描き分けて、表情を見ようとする。車の中には彼の爽やかな香水がわずかに漂っていた。その香りに胸がいっぱいになりそうになりながら、うつむいた私の頬をそっと彼は手で包んだ。私より大きくて頼もしい手。熱くて、戸惑ってしまう。掴めない。握ることができない。彼のその手を振り払ったときには、私は泣いていた。

悠史は運転席で固まっていた。どれほど強く見つめても悠史はその表情を変えなかった。悔しさと悲しさが入り混じって私は思わず言った。
「放っておいてくれればいいのに。好きにならないで欲しいなら、優しくしないでくれればいいのに。どんなこと思って私と一緒にいて、私に触れるの」
泣きながら私は訴えた。先日の彼の腕を思い出す。抱きしめられたといえるほどのことでもない。肩を抱かれただけだ。でも、こんなふうに頬に触れるだけだって、たったそれだけでさえ、私には平気じゃない。すべてのことが、私は少しも平気じゃない。こんなふうそばにいて、いつでも手が届くのに、触れられない。

繰り返し熱い涙をしたたらせて、じっと見つめて、どれくらい伝わるだろう。この涙で、どのくらいの気持ちをわかってもらえるのだろう。

わかっていたはずなのに。悠史と結婚を決めたときから、全力で愛することも愛されることも望むべきではないことを、わかっていて結婚したはずなのに。もがいている、苦しんでいる。でもいつまでも居心地のいい関係が続くと勝手に期待していた。ばかばかしくて、そんな自分にも泣けた。

映画やドラマならかっこよく車のドアを閉めて走り去るところだろうが、私たちは同じ場所に帰るしかない。
それぞれの不可侵の領域である自分の部屋に逃げなかったことは、自分でもかなりかっこ悪いと分かっている。でも話をしてほしかったのだと思う。言い訳でも何でもいい。言葉で教えて欲しかった。

ベランダに出て彼のお気に入りのウィスキーを勝手にソーダで割って飲んでいると、悠史が隣に立った。面倒だったのか、今夜一杯目として味わいたかったのか、冷えた缶ビールを右手に持っていた。放っておかない彼のやさしさを、私は憎むことができない。

「ずるいわ。男の手で私に触れて、いつも優しくして、話を聞いてくれて。これで好きになるなって、どういうこと?」
涙こそ止まったものの少しだけ鼻をすんと鳴らして、私は嫌味のように笑って言った。

悠史はいつだって堂々としている。不安も動揺も見せない。笑顔は見せてくれるけど、これが本心なのかなと思ってしまう、そのくらい丁寧できちんとした微笑みだった。
やがて口に含んだビールを手元におろすと彼は遠くの夜空を見ながら言った。

「好きになるなっていうのは、別に憎んで欲しいわけじゃないよ。ずっと仲良くしていきたいのは間違いないんだ」

私はそう言われて、私は首を傾げた。どういうこと?という顔をしていただろう。
夏の大きな夜空を背景に彼は憎いほどきれいに笑った。困ったような顔をした私を見たまま、しばらくの沈黙の後、悠史は一呼吸してから、ぽつりと言った。
「仕事とか、年齢のせいかな、深く関わらないことが得意になっていく。」
遠くで真夏の星座が強く明るく光っていた。

「執着しない。そのほうが気楽だし。でも本心は、執着したくない。執着すればするほど、なくすときがしんどいから。患者さんというか、命あるものが亡くなるのは仕方ないけどさ。でも女の子たちって、めちゃくちゃ強い。俺が思っていた男と違うってわかると、平気で他の男のところに行く。どのくらいの気持ちで好きと言えるんだ?どのくらいの気持ちで俺に抱かせるんだ?そう思うと、ちっとも本気で人のことなんて好きになれない。だから結婚なんてするつもりなかった。」

自嘲気味に悠史は言う。
私は彼のことを知っているつもりで知らないことが多いこともわかっていた。それでも他の人よりは彼の多くを知っているつもりだった。でもそのうつむいた横顔は、知らないことをすべて知りたい、そしてできたらそのすべての癒しになりたい、と思う切ないものだった。

彼のそばにいたいと思った女の子たちの気持ちは、決して嘘ではなかったと思う。そしてそれを思うと、なぜだか切なくなった。そんな私の顔を彼は見て少しだけ笑って、言った。

「でも、もし結婚するなら、繭子だったらいいなと思った。社会的な立場とか、経済力とか、そんなの手にする前から繭子は俺といてくれた。だからこれからも繭子なら絶対にいなくならない、いつもそこにいてくれるって思ってた。恋だ愛だって、ほんのひととき激しく求めあって冷めて、終わってしまうようなのは嫌だったから。俺にそういう気持ちを抱かないでほしかった。これまで通りでいたいと思ったから、好きにならないなら、なんて言った。でもそんなのは勝手だったんだけど」

ごめん、と謝られることのほうが辛かった。彼の中で自分は本気で好きになる対象でも執着すべき対象でもなかったのだと思ったから。同時にほんのひととき激しく求めあう、という言葉に私はかつて恋をした男性の顔を思い浮かべる。

少しの沈黙の後で、ビールで口の渇きを潤した悠史が言った。
「でも、あのピアニストの男の話を聞いたとき、変な気持ちになった。去年会ってたっていう、あの見合い相手以外にも当然男なんて世の中にたくさんいて、繭子だってまた誰かを好きになることだってあるわけで、それなのに自分と結婚してよかったのかなとか」
「そんなこと」
言葉が口をついて出た。
でもそれ以上は、うまく言えなかった。それ以上のことも聞きたくなかったから。悠史だってまた誰かと素敵な出会いをするかもしれないのは同じことだ。

そして謝りたいのは同じだった。居心地のいい場所に身を寄せて、むなしさをよそで紛らわし、ごまかして、本当のことを少しも伝えていなかった。
聞いて欲しいちょっとしたできごとや一人で飲むのはもったいないワインを分け合うことも、他の誰でもだめだったはずなのに。

私はグラスの中で小さな気泡の弾ける、彼のお気に入りのお酒に少しだけ勇気をもらって口を開く。
「こうして暮らしてまだ半年ちょっとだけど。いきなり違う暮らしは、想像できないわ」
「そうだね、それは、俺も同じだ。わかるよ。明日の朝、起きて、いきなりいなくなってる、とかはナシだよ」
「悠史こそ」

お互いにどこか申し訳なさそうに笑って、残っていたお酒を飲み干して、おやすみ、と言っていつも通り各自の部屋で眠った。
部屋の扉を閉めると、とたんに同じ家にいて一人で眠ることの寂しさが強烈に私を襲った。一人きり、という意味を本当に知った気がした。