おまえが欲しい、なんて邦題をつけられえたエリック・サティの代表曲の一つ、ジュトゥヴ。

タイトルは知らなくても、聴けば絶対にわかる曲。悠史の病院の電話の保留音だった。
この曲の意味を知っているの?と聞いたら、いや、と彼は軽く首を横に振ってジャケットを脱いだ。電話機の設定まで考えてないよとだけ言って。

そうよね、とつぶやくように繭子は言って、淡々とダイニングテーブルに食器を並べた。

入籍して一緒に暮らし始めて一か月。まだ寒いが季節は少しずつ春を感じさせていた。新しい暮らしというのが似合う。目新しい街並みや建物、新調した家具たちに囲まれていると、長い付き合い同士でも新鮮な気持ちになった。


「俺のこと好きにならないなら」

それが結婚するときに約束したことだった。
変な結婚。と言った私に彼は笑った。

「それでも変な見合い相手よりマシな結婚だと思うけどね。俺と一緒になったほうが楽だよ」

そう言って、西麻布のバーで彼はペリエを飲んでいた。だから酔っているわけではない。電車を嫌う彼の移動手段はいつも車で、そのせいもあって外でお酒は一切飲まない。タクシーや代行も嫌い、いつでも自分が運転席で、助手席には女の子しか乗せたくないと笑って言っていた。
身長は平均より少し高い程度だが、母親ゆずりの端正な顔立ちと、人柄(外面ともいう)のよさもあって、彼の隣にはいつでも魅力的な女性がいた。そして彼は自分の年収や職業で女の子たちが群がってくることもきちんとわかっていた。

「悠史こそ、一番好きな人と結婚したほうがいいと思うけど」

私は旬の桃を使った甘いカクテルなんて目の前に置いて、酔わないように、その細いグラスから少しずつ蜜を吸うように淡いピンク色の液体を啜った。

「そんな人いないね。今後もできる気がしない。だったら繭子と結婚するのがベターだよ。親同士も親しくて話も早い。料理も上手だしマナーもきちんとしてる。楽器が弾けるのもうちの親好みで最高だね、文句なしだ」

付け足すように「美人だし」と言ったにこやかな彼の顔を見ているのが嫌になって、顔をそむけた。窓際の席では少し年配のおそらく夫婦が親しそうに話をしていた。彼らはどのくらいの時間そうしてともに向かい合って微笑み合って語り合ってきたのだろう。
私は、夫婦とは結婚してからどちらかがこの世から去る日まで親しくしているものだと思っていたし、場合によっては離れ離れになっても愛し続けるものだと思っていた。

それなのに、父親の部下だという見合い相手と結婚させられそうになっていたところを、長い付き合いの友人から愛のない結婚を提案される。自分には相思相愛の恋愛や結婚とは縁がないのかもしれない。悠史の父親と私の父親は大学の同級生だった。結婚後も夫婦で交流があり、その子供たち、私と悠史もまた幼い頃から、それこそ男女を意識する前から親しくしていた。

それでも、こんな話を悠史にするために彼を呼び出し会っている私はどこかで彼に期待していたのかもしれない。そんな男はやめておけ。そう言って欲しかったのかもしれない。結果は50点だった。言って欲しい言葉はくれたが、どうも期待していたものと違う。

確かに、冴えない見合い相手よりも、幼いころから付き合いのある悠史のほうが気楽なのは間違いなかった。悠史とは、子供のころから家族ぐるみでホームパーティーやバーベキューをしていたから、それなりによく知っている。
どんな女の子たちと付き合い、喜ばせ、泣かせてきたかも。

そして悠史もまた、同じような状況ではあった。研修医を終えて入局した彼は上司からいくつもの縁談を持ってこられていて、院内の看護師たちからのアプローチに面倒くさそうにしていた。
そして私たちは友人から夫婦になった。

私と結婚することに決めたとき、彼の両親はたいそう喜んだそうだ。


「ところで、その電話の曲がどうしたって?」

携帯電話に電話しても出ないので、病院に電話をした。なんてことはない用事だったことには「そんなことで?」と驚きつつ、少しも文句を言わなかった。彼はエビとイカとセロリのマリネをおつまみに白ワインを飲みながら言った。
週末の夜は自宅でゆっくり過ごす。外食や接待でおいしいものをいくら食べる機会があっても、家で普段のおかずとお酒を楽しむ時間が一番だと言う。
だから、つい料理は頑張ってしまう。おいしい、という一言で苦労しながらエビやイカの下処理をした時間が報われる。

「ジュトゥヴという曲でね、フランス近代の作曲家エリック・サティの有名な曲の一つよ。変人とかって言われていた作曲家なんだけどね。ピアノ曲がよく知られているけど、もとはシャンソンなのよ。歌詞がついた曲なの」

いつか他の人にそう教えられたことを得意げに私は言う。大学の専攻は仏文学科で、音楽を専門に学んできたわけではないが、フランス近代を含め、音楽は大好きだ。幼少時より続けてきた趣味のピアノはいまでも独学で続けている。悠史との新居にもピアノだけは置きたいとお願いしたほどだ。

「へえ、どんな歌詞?」
「男性版と女性版があるんだけど、どちらもなかなか情熱的な歌詞よ。邦題は‘お前が欲しい’っていうの」
「英語のI want youってところか」
「そうね、でも、お前が欲しいなんて日本語のタイトルはどうなのって思う。せっかく女性版もあるんだし、‘君を望む’とかのほうがいいと思わない?」
「繭子っぽい」

笑われて、少し恥ずかしくなって、赤ワインを取りに席を立った。
私も悠史をそれなりに知っているが、悠史もまた、私のことを知っている。彼の身の回りにはいないほどロマンチストで女の子らしい、と言った。そしてこういう彼の態度を見ると、自分の一番の理解者のように思えてしまう。

ワインセラーから取り出した赤ワインを開けてもらい、ラザニアを食べ、デザートに私はイチゴを食べ、彼はコーヒーを飲み、彼は自分の部屋に引き上げた。観たい映画があるのだと言う。
ブランデーとチョコでも持って行こうかと聞いたが、今夜はもういらないと断られた。ペリエを持った悠史は自室に引き上げて行った。彼の部屋には大きなテレビがあるのだ。

そして私は片付けをし、入浴をして、自分の部屋にこもる。一人暮らしなどしたこともなかったが、一人で眠ることも平気だ。隣の部屋に彼がいるのだから、怖いこともない。音は何も聞こえないが、ボリュームを下げてあの大きな画面で映画を楽しんでいるだろう。それがわかるから、きちんと安心して私は眠れる。

結婚してよかったはず。
悠史もそう思っていてくれたらいい。友人同士でも、お互いをとても大切に思い合える存在だと。私はそれに身を寄せる。悪くなかった。

頭の中ではサティのジュトゥヴが流れていた。智の弾いてくれるピアノの音色で。