少し距離があったように思う。


だけどその声は、周りの雑音を一斉にかき消すくらいに澄んでいた。


声と同時に、首にかけられていた鬼の手がビクリと跳ね上がり、その力が緩まる。



「おい。聞こえなかったのか」

「ヒッ……!」



鬼はすぐに"私"から離れた。


その声の主が近寄ってくるのがわかる。
チリン、と軽やかな鈴の音が耳に響く。



「も、申し訳ごぜぇません。
まさか南天(なんてん)様の獲物とは露知らず……」

「獲物?貴様なにを勘違いしている」

「し、失礼しやした!客人でしたか?」



鬼の質問には答えなかった。


その声の主は"私"と同じ目線の高さに膝をつき、じっと"私"の目を見つめる。



「…………」



人間……だろうか?


少なくとも、妖怪のような邪悪さを感じないし、見た目も人間と相違ない。


ただ、あまりにも美しいものだから"神様"なんて単語が浮かんでしまった。


"神様"なんて……いるはずがないのに。



「娘。具合は?」

「あ、足を挫いた、くらい……」

「それはおかしいな。よく見てみろ」

「え?」



言われたままに足に目を向ける。

そして、先ほど転けた際に強くぶつけて動かなくなっていた足の痛みが跡形もなく消えていたことに気づく。



「うそ、なんで……」


信じられない、と顔を上げると、その人は小さくため息をついた。



「当たり前だ。ここは現世ではない。
あなたはもう怪我ができるような身体を持ち合わせていない」



耳を疑った。

うつしよでは、ない?現世?

これは本当に夢ではないか?



「どういうこと?じゃあここはどこなの?」

「……。何も状況が掴めていないようだな」



南天……と呼ばれていただろうか。

彼の手がすっと伸びてきて、"私"を立ち上がらせる。



「衆目が気になるだろう。
少し話せるところにいこうか」

「は、はい」



少なくとも、この人は"私"に危害を加えない。

会ってすぐだがそう確信できるくらいには、清浄な空気を感じる。


南天と呼ばれた男が歩を進めると、野次馬達がさっと引き道を開ける。


まるでモーセの奇跡だ。
彼は一体何者なんだろうか。



「ああそうだ。先ほどの鬼」

「!?は、はい……お咎めならなんなりと」

「咎ならもう受けているぞ。手と腹だ」

「へ……?」



鬼はハッとして、自身の手を見た。

私の首を締めようとしたその手が、ブルブルと震える。

よく見ると、その手が黒く染まり、今にも崩れ落ちそうになっていた。

腹も同様なのか、急いで身を抱えるようにしてうずくまる。



南天は小さく笑った。



「それは医者に見せて治るものではない。
反省したのなら、府君庁(ふくんちょう)に来い。診てやる」