『さて、他に何か気になることは?』

ひとしきり細かな指示を出されたのち、確認の意味で専務に問われ、特に無いと答えれば、なぜか大げさに呆れられる。

『なんだ、隠し事をしたくない相手とかいないのか?』
『専務のおかげで、同期とは特別交流はないので、今更別に…』
『馬鹿、女性のことだ』
『女性?…ああ恋人ですか、と言いましても、今特に執着している女性はいないので』
『相変わらず淡白な男だな、お前は』

いかにも”つまらない”といった様子で、ソファから立ち上がる専務に続いて、こちらも席を立つ。

『まあいい…だが、そういった相手が表れたら、すぐ報告しろよ』
『それは業務命令でしょうか?』
『いいや、単なる興味本位に決まってる』

いつの間にか、テーブルに置かれたままだった伝票を手にした専務は、すれ違いざまに俺の肩に手を置くと、含んだ笑みで揶揄うように続ける。

『俺はお前が、女のことであたふたするのが見たいだけだ』
『残念ながら、そのようなご期待には答えられないとは思いますが』
『フッ…随分な自信だな、覚えておこう』

二度程肩を軽く叩かれ『じゃあな、来週からよろしく頼むぞ、”時枝君”』と冗談めかして、立ち去っていく。

その後ろ姿を見送りながら、小さく肩をすくめた。

専務が何を期待しているのか分からないが、少なからず人並みにあった過去の恋愛からも、自分を見失う程の経験はなく、特定の女性に嵌って右往左往するなど、自分には想像もできない。

ましてや、長くかかると思っていた仕事復帰のチャンスが巡ってきた今の自分には、面倒な色恋沙汰は不要なもの。

そんなくだらないことより、目下の問題は、完全に別人になりきって、自社に潜入するという、重要且つ難関なミッションなのだから。