第6章:休職

 自分の体調に異変をはっきりと感じたのは、9月のことだった。体調不良自体は、7月にクラスの半数が欠席するという事態が起こる中、私も発熱しつつも出勤するという、今思えば子どもたちにさらに感染させる危険性があっただろうと反省する事態もあったのだけど、9月のは違った。
 始まったのは、出勤前の理由なき涙。何故だか朝起きると、泣くことをやめられなくなってしまうのだ。これが、うつ病の初期症状であることは大学で知っていたが、このくらい乗り越えようと思い、私は泣き腫らした顔を伏せながら出勤一時間前に職場へ行き、準備をしながら涙が止まるように呼吸を整えていた。
 いつからだったか、私は、自分が子どもたちの信用に足る人間ではないことを突き付けられることが増えた。要は、上司にたびたび「あなたは自分が子どもに信用されていると思うか」と問われるようになったのだ。答えは勿論「いいえ」一択だ。私の力不足は承知していた。特に、私には幼稚園教諭としての激しい欠陥があった。

 私はピアノが下手だ。

 幼稚園の先生の姿を想像すれば、ピアノを弾きながら子ども達と一緒に歌う姿が容易に想像できると思う。その姿は、私には再現できない。勿論、二次試験ではピアノの実技があった。指定曲と、その場で渡される8小節のメロディーと歌詞に合わせて自分で伴奏を付けて弾き歌うというものだ。3分間練習して、私は和音を使って歌い上げた。私は、試験に合格するに足る人材であることは試験が証明してくれている。だけど、それではだめだった。周りにいらっしゃった先生方は、多くが幼少期からピアノを習っていた。私は、大学4年生の冬から習い始めたのだ。遅すぎるでしょう。それまでは独学で弾いていたのだ。だが独学に限界を感じ、講師時代に力を付けようとピアノを習っていた。就職してからも習っていた。最初の先生には、5月に忙しさから通えず、教室をやめるように言われた。6月には、親戚の伝手で休日にピアノを教えてくれる新たな先生と出会えた。今でもお世話になっている。
 とにかく、ピアノがネックになり、指導に遅れが生じてしまったことは自業自得だと受け止めている。結果、冬の生活発表会では、子どもたちの指導を一切任されることはなく、上司が代わりに行うことになった。私は勉強だと思って一生懸命見て学ぶことにした。

 さらに異変が訪れたのは10月のことだった。出席人数が数えられなくなった。ロッカーにある子どもたちのカバンの数を数えるのだが、最初は目で数えて3人もの誤差が出た。次に手で触って数えて、2~3人の誤差が3日続いた。今度は手で触って数えるのを3回繰り返した。2~3人の誤差は消えなかった。
 出席人数の正確さは、災害などの有事には重要になる。子どもたちの安否に関わる大切な項目だった。それが合わない。火事が起きたら?犯罪者が侵入してきたら?置いて行かれた子どもがどうなってしまうのかを想像したらぞっとした。
 数を数えるという単純作業ができなくなった時点で、精神的な異変は確定していた。私は、心療内科の受診を行った。結果は「すぐにでも休職しなさい」だった。トリガーは、長時間労働による脳の疲弊とのことだった。
 11月の時点で、私はほぼ毎日家についてから5時間かけて指導案を製作していた。それほど仕事のパフォーマンスが落ちていたのだ。時間外労働の合計時間は、とりあえず120時間以上であったことは確かであったと伝えておく。
 休職を勧められたが、そこは意地を張ってしまった。心療内科受診から1ヵ月、私は心療内科に通いつつ働いていた。だが、12月には、立ち眩みなどもひどくなり、私は上司に診断書を提出した。上司に「病院へいこう」と言われたときに、実はもう診断書を頂いている旨を伝えて泣きながら診断書を提出したのだった。
 私の目は、コンタクトレンズが灰色にでもなってしまったのではないかと錯覚するほど景色を映し出すことができなくなっていた。

 冬休みから現在にかけて、私は休職している。
 職場を恨んでいるかって?私自身のことは、どうにでも納得させられる。ピアノの技術不足を筆頭に、うまい手の抜き方や資料の不足など、事故の責任は大きい。よって、職場を強く恨むなんて筋違いだとも思っている。もちろん、長時間労働を当たり前だとする労働環境は改善すべきだと思うが、感情的な恨みは少ないと思う。
 ただ、許せないのは、私の同期であり、友人であるAさんを退職に追い込んだことだ。個人情報にあたるため詳しくは言えないが、教員なればだれもが言われるでだろう禁止事項「個人の人格の否定」をAさんには散々していたということだ。1年目の新米に、20年以上の経験者と同じパフォーマンスを求めることも疑問だが、教諭に向いていないと面と向かって言ったとAさんから聞いた時ほど激しい怒りを覚えた記憶はない。職場関係のことに限定しての話だが。
 
 私は今も職を休んでいる。だが、諦めてはいない。自身の反省点は沢山浮き彫りにさせた。なら、次に現場に戻るときは、それらを克服する武器をたくさん用意していこう。そして今度こそ、後悔のないように働ききってみせたい。
 そう思っている。