「そういえば、さっき弾いてたラヴェル、来月のリサイタルの曲よね? わたし、パパのラヴェル大好きなの」
「嬉しいことを言ってくれるね。花音のために来月は腕によりをかけて演奏するよ」
パパと話していると、突然、家のインターホンが鳴り響いた。パパがドアホンを確認する。
「…楓だ。今日はレッスン日じゃないのにどうして…」
そうつぶやくと、パパはキッチンを出て行った。玄関のドアが開く音がして、少しするとパパと一緒に一人の女性が入ってくる。
「昨夜から指が思うように動かないんです。コンクールは明後日なのに…先生の期待を裏切ってしまうんじゃないかって、私すごく不安で…」
わたしは、キッチンの扉からこっそりと二人の様子を眺めていた。
パパと話しているのは、数ヶ月前からホームレッスンを受けに来ている若い女の人だった。長く艶のある黒髪から、青白い顔が覗く。何かに追い詰められたような、暗い表情をしている。
「とりあえず上がりなさい。こんな夜に外にいたら身体を冷やしてしまう。大事な時期なのに…」
「ごめんなさい先生…ありがとうございます…」
「楽譜はあるかい? 不安なところを見てあげるよ」
パパは彼女の肩を抱いて、家の中に招き入れた。そして、わたしの姿に気が付くと、難しい顔で、こう言った。
「花音、急だけど、今からレッスンが入った。ママたちが帰ったら、夕食は後でいいと伝えてくれるかい? 」
「うん…わかった」
わたしはそう答えて、ちらりと隣の女の人に視線を向けた。その人も同じように、わたしを見つめていた。目が合った瞬間、「あっ」と声が出る。彼女の写真が音楽雑誌のインタビュー記事に載っているのを何度も見たことがあった。
「…こんにちは。先生の、お嬢さんかしら?」
軽く会釈して、彼女は言った。わたしはうなずいて、小さな声で答える。
「はじめまして、花音です」
「カノンちゃん…、素敵な名前。可愛いお嬢さんですね、先生」
彼女はにこりとほほえみ、パパを見上げた。どこかすがるような目をしていた。パパは複雑な表情を浮かべている。彼女の華奢な肩が、パパの手の中で静かに震えていた。
わたしは思わず、二人から目を逸らした。この二人の間に何があるのか、わたしは知らない。知りたくない。
二人は、地下のレッスン室に消えた。ピアノの音が鳴り始めると、胸の奥がざわめき、締め付けられるように痛み出した。
「嬉しいことを言ってくれるね。花音のために来月は腕によりをかけて演奏するよ」
パパと話していると、突然、家のインターホンが鳴り響いた。パパがドアホンを確認する。
「…楓だ。今日はレッスン日じゃないのにどうして…」
そうつぶやくと、パパはキッチンを出て行った。玄関のドアが開く音がして、少しするとパパと一緒に一人の女性が入ってくる。
「昨夜から指が思うように動かないんです。コンクールは明後日なのに…先生の期待を裏切ってしまうんじゃないかって、私すごく不安で…」
わたしは、キッチンの扉からこっそりと二人の様子を眺めていた。
パパと話しているのは、数ヶ月前からホームレッスンを受けに来ている若い女の人だった。長く艶のある黒髪から、青白い顔が覗く。何かに追い詰められたような、暗い表情をしている。
「とりあえず上がりなさい。こんな夜に外にいたら身体を冷やしてしまう。大事な時期なのに…」
「ごめんなさい先生…ありがとうございます…」
「楽譜はあるかい? 不安なところを見てあげるよ」
パパは彼女の肩を抱いて、家の中に招き入れた。そして、わたしの姿に気が付くと、難しい顔で、こう言った。
「花音、急だけど、今からレッスンが入った。ママたちが帰ったら、夕食は後でいいと伝えてくれるかい? 」
「うん…わかった」
わたしはそう答えて、ちらりと隣の女の人に視線を向けた。その人も同じように、わたしを見つめていた。目が合った瞬間、「あっ」と声が出る。彼女の写真が音楽雑誌のインタビュー記事に載っているのを何度も見たことがあった。
「…こんにちは。先生の、お嬢さんかしら?」
軽く会釈して、彼女は言った。わたしはうなずいて、小さな声で答える。
「はじめまして、花音です」
「カノンちゃん…、素敵な名前。可愛いお嬢さんですね、先生」
彼女はにこりとほほえみ、パパを見上げた。どこかすがるような目をしていた。パパは複雑な表情を浮かべている。彼女の華奢な肩が、パパの手の中で静かに震えていた。
わたしは思わず、二人から目を逸らした。この二人の間に何があるのか、わたしは知らない。知りたくない。
二人は、地下のレッスン室に消えた。ピアノの音が鳴り始めると、胸の奥がざわめき、締め付けられるように痛み出した。
