第1話「紫丁香花」

「いらっしゃいませ」
 店に入ってきたのは、トレンチコートを着た女性だった。泣き腫らした目を伏せながら店の中を見て渋々カウンターの席に腰を掛けた。重そうなトートバックを床のカゴに入れて目の前に立てかけてあるメニューを見る。
「ロイヤルミルクティー、ホットで」
「かしこまりました」
注文を済ますと、コートを脱いで椅子の背中に掛けた。それっきり、女性は机に突っ伏してしまった。巻かれたミディアムの茶色の毛先が弧を描いて机に広がる。
「…………」
小さな鍋の中の牛乳と茶葉が踊る音だけがかすかに聞こえる空間。女性は少し顔をあげようとしてまた突っ伏した。
「いらっしゃいませ」
ぱっと顔をあげた女性の視線の先には、くすんだ緑色のジャケットを着た男性がドアを開けて立っていた。
「あの、1人です……」
「お好きなお席へどうぞ」
「あ、はい……」
男性はおずおずと女性の隣に座った。お好きな席と言いながら、空いている席カウンターにある女性の隣しかないのだから、仕方がない。
「失礼します」
女性に声を掛けて、黒のリュックをカゴの中に入れ、上着を脱いで椅子に掛けて席に着いた。メニューを開いてしばらく考えた後、声が聞こえた。
「あの、ロイヤルミルクティーのホットで」
「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」
上半身をひねって手を挙げる男性に向けて注文を受けると、再び鍋に向き直った。
「はい」
「お待たせいたしました、ロイヤルミルクティーのホットです」
女性の前に置かれたマグをちらりと男性が見て、少し気恥ずかしそうにしていた、気がする。
「……」
女性は、マグを手で包むようにして、手を温めるしぐさをする。
しばらくして、男性の分のロイヤルミルクティーが出来上がった。
「お待たせいたしました、ロイヤルミルクティーのホットです」
「あ、ありがとうございます……」
男性は角砂糖をトングで取ると、とぽん、とぽん、とぽんと入れ、マグに口を近づけた。
「……あちっ!」
ゆっくり飲んだつもりが思ったより熱かったらしく、唇を押さえた。マグを置いて座りなおした。ゆっくりと、時間と共にロイヤルミルクティーの温度が変わってゆく。
程よい温度になった頃、女性が小さな声で聞いた。
「甘党……なんですか?」
「え?」
「えと……」
「あ、ああ、そうなんです。甘いの、好きです……」
「……」
「……」
「甘いの、おいしいですもんね」
と言って女性はロイヤルミルクティーを口に含んだ。湯気はすっかりなくなっていた。
「そう、ですね……」
気恥ずかしそうに男性もマグに口を付けた。しばらく沈黙が続き、今度は男性が女性に声を掛けた。
「あの、ここ、よく来るんですか?」
「え?いえ、初めてです」
「あ、そうなんですね」
「……」
「……」
よく会話が途切れる。男性はロイヤルミルクティーに口を付けながらどこか落ち着かない様子だった。そして、何拍かタイミングを置いて再び声を掛けた。
「あ、あの、俺、この近くの大学に通ってるんです」
「近くって、花沢大学(はなざわだいがく)ですか?」
「はい、そうです」
「私もなんです。ちなみに福祉科です」
「同じ大学だったんですね。俺は、国文科なんです」
「そうなんですね、奇遇、何年生ですか?」
「1年生です」
「私、2年生」
「え!?先輩!?あ、な、ごめんなさい」
「大丈夫だよ緊張しなくて、私あまり大人っぽく見えないみたいで」
「そんなことないですよ、か、可愛いですし」
「……」
「え、あ、その、急にごめんなさい……」
「あ、ううん、ごめんね、その、可愛いって言ってもらえるの、嬉しいし……」
女性は、男性と比べると小柄だ。頭ひとつくらいは身長差があるのではないだろうか。
「あの、もしかして……あ、そうだ、俺、丁嵐 香太(あたらし こうた)です。よろしくお願いします」
「あ、私は、木村 咲(きむら さき)。よろしくね」
「はい、よろしくおねがいします」
「うん」
「……えと、その」
「ん?」
「あの、木村さん、目は、メイクなんですか?あ!いや、その、俺メイク詳しくないので、その……」
「あ、ううん、なんでもないの。すこし、その……うん」
木村さんはロイヤルミルクティーを少し飲んで言葉を続けた。
「愚痴っていい?」
「は、はい」
「今日ね、フラれたの」
「え?」
「彼氏にフラれましたー!」
「え?こんなにかわいい人を?」
「あはは、ありがとう。でも、それが原因なんだよね、その……可愛いが……」
可愛いが原因ってなんだ。
「どういうことですか?」
「子どもっぽ過ぎてなんか対象じゃないんだって。なんか違うんだってさ」
「は?」
「あはは、丁嵐くん、顔、顔」
丁嵐さんは驚愕と言うより、眉が真ん中に寄っていて怒りに近い表情をしていた。
「そんな、可愛いから対象じゃないって、失礼な人ですね。むしろ、その、別れてよかったんじゃな……」
「……」
木村さんは目を伏せた耐えているのが見て取れた。気まずいので鍋の片付けを始めた。
「……ごめんなさい」
「丁嵐くんが謝ることじゃなよ。むしろ、そんな男こっちからフッてやりたかったわ」
「木村さんは、その、可愛いですけど、大人ですよ」
「?」
「俺、恋とかしたことないんですけど、たぶん、そういうフラれ方したらしばらく立ち直れないですよ。俺、その、俺も、甘いの好きなの友達によくからかわれるんです」
「甘党が可愛いって?」
「そうです。いいじゃないですか。甘いの、好きなんです」
「……確かに、甘党って可愛いって思う」
「う……こういう男って、ダメなんですかね?」
「ううん、そんなことないよ。好きな物は好きって言えるのはかっこいいよ。というより、人の嗜好にいちいち口出しして欲しくないよね」
「そうですよね!?俺、甘いのも好きですけど、最近はブレンドコーヒーなら砂糖なしでも飲めるようになってきてるんです。甘いのも、苦いのもいけるようになってきてるんです」
「そのコーヒーにミルクは?」
「……半分」
「あはは、可愛いね」
「あ、からかってます?」
「あはは、ううん、可愛い」
「可愛いか……」
「うん、可愛いって、誉め言葉だよね、何で悲観しなきゃならないのよ」
「木村さんは良いですけど、俺は男だし……」
「関係ないよ。可愛気があるのは、愛されるよ」
「あい……」
ちらりとみると丁嵐さんは顔を赤くしていた。
「ごちそうさまでした」
木村さんが手を合わせた。すると、丁嵐さんも慌ててロイヤルミルクティーを飲み干した。
「もう帰るんですか?」
「うん、話聞いてくれてありがとう」
「あ、あの、俺も今日は帰るんで、途中まで一緒に行きませんか?あ、駅まで……」
「あはは、可愛い後輩だね。そうだ、帰りに連絡先交換しようよ。大学でも会えるかもだし」
「……はい!お願いします。一般教養とか、同じの取ってたら良いな」
2人は席を立ちあがった。
「お会計お願いします」
「あ、俺出します」
「ううん、愚痴を聞いてくれたお礼、先輩として奢らせて、ね?」
「……木村さんは大人ですね」
「先輩ですから」
晴れやかに笑う木村さんは、2人分のロイヤルミルクティーの代金を払って外に出た。後を追うように、丁嵐さんも上着を持ってついていく。
扉が閉まる間際に、丁嵐さんの着ているパーカーの色が、鮮やかな青紫色であることに気付いた。
「ありがとうございました」