「イトウさん、ですよね?」
観覧席の彼は、ゆっくりと顔を上げて。
「盗み聞きはよくないな」
少し笑って、手帳を閉じる。
「どうやら、僕と君はちょっと縁があるみたいだね」
「ちょうど僕もそう思ってました」
僕はイトウさんの隣に座る。
「あなたに聞きたいことがいくつかあります」
「いいよ」
「まず、どうしてあの時リンクに入ってこれたんですか?」
「この前の、君が貸切だった時の話だね」
「そうです。受付の人も、あの日あなたを入れた覚えはないって言ってました。なんのために、どうやって、あの日リンクに入ったんですか?」
「うーん、そうだな……」
イトウさんがボールペンをいじりながら、微笑で答える。
「これは僕の仕事に影響することだから、あんまりベラベラ言えることでもないんだ。関係者の職にも関わってくるしね……。でも君には素直に言っておいた方が良さそうだ」
イトウさんはバッグの中から一冊の本を取り出した。
「僕は小説家で、こういうのを書いてる」
僕にその本を渡す。
「昨日のホテルの取り立て屋みたいな奴らは編集部。特に一番騒いでた女、あれは多分矢野だ。僕も記憶が曖昧だが、あいつは小説家から文字をもぎ取ることが仕事だからな」
ペラペラとページをめくってみる。
ちょっと文字が多いけど、所々目に入ってくる文章は嫌味がなくて、読みやすい。
「ま、そんな仕事をしてるもんでね。時々現地に取材に出ることもあるんだ。次に書くのがスケートが中心の話だから、選手たちの実態を知りたくて通い詰めてるってわけ。秘密にしておいて欲しいけど、ベッドを共にした仲なんだから……」
イトウさんの指が、するりと僕の頬を撫でた。
「もちろん、君も弱みを握られてるってわけだ」
僕は右頬の指の感触に火照って、その言葉が何を意味するのかわからない。
「わからないかな……君は昨日「自分から僕の部屋に」入ってきて、「自分から僕のベッドに入って寝た」んだよ。ネタにしたらやばいだろうね」
「なっ……!?誰かに言うつもり、」
「無いよ。絶対に」
イトウさんの整った顔が、僕の顔に近づいて。
「でも、僕の次の小説のことを誰かに漏らしたら、話は別かもね?」
いたずらっ子みたいに笑って、僕から離れた。
僕はあんなに綺麗な人に、目の前で笑顔を見せられたのが初めてで……
固まってしまって…。
「じゃ、今日はもう十分情報収集できたし、行くよ。また次会うときはさ、さっきみたいに鬼の顔して尋問するみたいなの、やめようね。じゃ」
長い脚で、颯爽と去ってしまったイトウさん。
イトウ、の文字さえ知らずに、僕は彼が居なくなるのを見送った。
ただ、手の中には一冊の小説が残っていたーー。
観覧席の彼は、ゆっくりと顔を上げて。
「盗み聞きはよくないな」
少し笑って、手帳を閉じる。
「どうやら、僕と君はちょっと縁があるみたいだね」
「ちょうど僕もそう思ってました」
僕はイトウさんの隣に座る。
「あなたに聞きたいことがいくつかあります」
「いいよ」
「まず、どうしてあの時リンクに入ってこれたんですか?」
「この前の、君が貸切だった時の話だね」
「そうです。受付の人も、あの日あなたを入れた覚えはないって言ってました。なんのために、どうやって、あの日リンクに入ったんですか?」
「うーん、そうだな……」
イトウさんがボールペンをいじりながら、微笑で答える。
「これは僕の仕事に影響することだから、あんまりベラベラ言えることでもないんだ。関係者の職にも関わってくるしね……。でも君には素直に言っておいた方が良さそうだ」
イトウさんはバッグの中から一冊の本を取り出した。
「僕は小説家で、こういうのを書いてる」
僕にその本を渡す。
「昨日のホテルの取り立て屋みたいな奴らは編集部。特に一番騒いでた女、あれは多分矢野だ。僕も記憶が曖昧だが、あいつは小説家から文字をもぎ取ることが仕事だからな」
ペラペラとページをめくってみる。
ちょっと文字が多いけど、所々目に入ってくる文章は嫌味がなくて、読みやすい。
「ま、そんな仕事をしてるもんでね。時々現地に取材に出ることもあるんだ。次に書くのがスケートが中心の話だから、選手たちの実態を知りたくて通い詰めてるってわけ。秘密にしておいて欲しいけど、ベッドを共にした仲なんだから……」
イトウさんの指が、するりと僕の頬を撫でた。
「もちろん、君も弱みを握られてるってわけだ」
僕は右頬の指の感触に火照って、その言葉が何を意味するのかわからない。
「わからないかな……君は昨日「自分から僕の部屋に」入ってきて、「自分から僕のベッドに入って寝た」んだよ。ネタにしたらやばいだろうね」
「なっ……!?誰かに言うつもり、」
「無いよ。絶対に」
イトウさんの整った顔が、僕の顔に近づいて。
「でも、僕の次の小説のことを誰かに漏らしたら、話は別かもね?」
いたずらっ子みたいに笑って、僕から離れた。
僕はあんなに綺麗な人に、目の前で笑顔を見せられたのが初めてで……
固まってしまって…。
「じゃ、今日はもう十分情報収集できたし、行くよ。また次会うときはさ、さっきみたいに鬼の顔して尋問するみたいなの、やめようね。じゃ」
長い脚で、颯爽と去ってしまったイトウさん。
イトウ、の文字さえ知らずに、僕は彼が居なくなるのを見送った。
ただ、手の中には一冊の小説が残っていたーー。
