夕食の席は、今日も夫人とマティウスとわたしの三人だけだった。エッフェンベルグ氏は、毎夜晩餐会で忙しいのだという。
 氏は貿易商として仕事があるときは港で買い付けをして、夜は営業のために晩餐会へ出席するという多忙な生活を送っているそうだ。

「とにかく現場に立ちたい人なのよ。そこは貴族より商人に向いていたのでしょうね」

 というのが夫人の談で、ここの夫婦関係は良好なのだなと感じさせられた。

 マティウスはといえば、昨晩のような愛想の無さはないものの、やっぱりおとなしい。夫人に話しかけられたことに答えるだけで、自分から進んで話すことはなく、食事に集中しているように見えた。
 この年頃の男の子(と言っていいかわからないけれど)は、親に対してこんなものかもしれないけれど。


「……これは?」

 前菜とサラダ、スープを食べ終えメインが出てきたところで、わたしにだけもう一皿別のものが出てきた。

「花だ。カティ、食べられる花だよ」
「マティウスさま……」

 皿には薄く切った冷肉一枚一枚を花弁に見立て作られた花に、野菜で出来た葉と茎が添えられていた。まさに食べられる花。
 マティウスを見るといたずらっぽく笑っていて、これは彼が料理人に言って特別に作られたものだとわかる。

「ありがとうございます」
「まぁ、カティは食べたいほどお花が好きなのね」
「……ええ」

 マティウスが何も言わずただ微笑んでいるだけだから、わたしも夫人の質問には曖昧に頷いておく。
 何となく、マティウスは昼間の出来事を二人だけのこととして大切にしているように感じたのだ。あの温室を秘密基地と呼んでいたということは、積極的に誰かに見せるわけではないのだろうから。

 わたしが花を食べる様子を、マティウスは楽しそうに見ていた。
 これは男の人が気になる女性にプレゼントするという、あれなのだろうか。……違う気がする。
 何となく、“餌付け”されているような感じだ。だって、わたしが聞く限り男の人は花や宝石やドレスを送るらしい。それなら肉は、やっぱり餌付けだろう。
 でも、マティウスからの、彼なりの親愛の情は伝わってきて、悪い気分ではなかった。




 夕食を終えて部屋に引き上げてひとごこちついてから、わたしは自分の荷物をあさっていた。

「これでいいかな」

 荷物の中から本を一冊取り出し、中身を確認する。小さな頃よく読んだ、おとぎ話の本だ。わたしが唯一持っている子供向け向けの本。
 母は字が読めなかったから、字を覚えてから自分で読んでいた。しっかり読めるようになってからは、それを母に聞かせていたのだ。
 母はいつも物語を最後まで聞かずに眠っていたから、もしかしたら安眠効果があるのかもしれない。
 だから、マティウスに読んでみようと思ったのだ。

 今夜も、もし彼が訪ねてきて、一緒に寝て欲しいなどと言うのなら、子守唄代わりにこの本を読んであげるつもりだ。
 昨夜のあの態度は、ほんの気まぐれで、やっぱり彼は女と見れば見境なく手を出すような男なのかもしれない。
 でも、彼がケダモノではなく淋しい一人の少年なのだというのなら、わたしは寄り添ってやってもいいと思っている。
 どちらにしても、わたしはセバスティアンから言われた仕事をこなし、お金をもらうだけだ。
 大事なのはお金だ。そのためにはこの仕事を無事終える必要がある。
 マティウスがケダモノでも何でも、手懐けて気に入られて、そして手を出されないで、追い出されることなく休暇を終えなくてはならない。




 そろそろ来るだろうと構えていたら、ドアがノックされた。

「マティウスだ。カティ、起きているか?」
「はいはい」

 呼ぶ声に応えてドアを開ければ、昨夜と同じように少し幼くなったようなマティウスの姿があった。

「今夜も眠れないんですか?」
「うん。……というより、眠るのがあまり得意ではないんだ」
「それは不便ですね」

 ついてくるとわかっているからか、今夜のマティウスはわたしの服の袖を引かなかった。随分と懐かれたものだ。マティウスは、結構簡単に人を信用してしまうらしい。

「今夜は子守唄ではなくて、本を読もうかと思いまして」
「『西の森の物語』か。小さな頃、読んでもらった記憶がある」

 擦り切れてほとんど文字が読めなくなった表紙を見せると、マティウスは嬉しそうに言った。この大陸では有名な本だから、ほとんどの子供は読んだ経験があると思う。

「面白い話だが、幼いときは最後まで聞くことができずに眠ってしまっていたんだ。この物語の結末を知ったのは、実はわりと最近だ」
「そうなんですね。わたしの母も、いつも途中で眠っていましたよ」
「読み聞かせるほうが眠ってしまうのか。カティ、それは大変だったな」
「……ええ」

 読み聞かせていたのは母ではなくわたしだということは、何となくマティウスに言えなかった。母のことを恥じたからではなく、読み書きもできないのに必死でわたしを育てた彼女の人生が悲しかったから。そして、この物語の結末を知らぬまま死んでしまったということも。

「……カティ、その本を読むことは母君を思い出して辛くはないか?」

 不意に感傷的になってしまったわたしを、心配そうにマティウスが見つめていた。使用人が主人に気を使わせるなんてもってのほかと、わたしは無理して笑顔を作る。

「いいえ……大丈夫です。読ませてください」
「わかった」

 マティウスはそっと手を伸ばしてきて、ベッド脇の椅子に座るわたしの手を握った。
 もしや迫られる流れか、と身構えたけれど、向けられる視線はあくまで穏やかで気遣わしげだった。
 だからわたしは、そっと本を開いて物語を読み始めた。
 片手を塞がれているから本を押さえるのがやっとでページをめくることができなかったけれど、もう何度も読んでそらんじられるまでになっているから問題ない。

 天候不良によって飢えや病気に悩まされたある村の少女が、原因を見つけ出して村を救うために森へ旅立つところから物語は始まる。
 少女はひとりきりで森をさまよって、そのうちにわけあって呪われた五人の若者と出会い、その若者たちと森の奥へと分け入って行くのだ。
 最後は森の奥で、祀られなくなったことで病んでしまった神様を見つけ出し、助けてめでたしめでたしなのだけれど、思ったとおりそこにたどりつくまでにマティウスは眠ってしまった。

 でも、わたしは最後まで語ることにした。
 誰に聞かせるためではなく、あくまで自分のために。
 本当は、母に最後まで聞いてもらいたかったのだ。聞いてもらって、「面白かったね」などと簡単でもいいから感想を言い合いたかったのだ。
 そう言った余裕が持てるようになるまで、母には生きていて欲しかった。わたしが働けるようになったら、それも可能だったのに。
 そんな、どうしようもないことを思い出してしまって、その気持ちを消化するには最後まで物語を朗読するしかなかったのだ。

「おやすみなさい、マティウス」

 無防備で幼く見える寝顔に言って、わたしはそっと部屋を出た。
 不思議な気分だ。手篭めにされるなら暴力も辞さないつもりでこの仕事を引き受けていたはずなのに、今夜もただ寝かしつけただけだった。

「これじゃ、ただの子守りね」

 不満ではなく感想として、そっと呟いた。
 ずっとこのままなら、こんなに楽な仕事はないーーそんなふうに、そのときは思っていたから。