「マティウスさま……わたくし、今お風呂から上がったばかりですので」
「そ、そうか。すまない」

 声だけ淑やかに言って、ものすごい勢いで衣類を身につけながら答えた。心の声をそのまま伝えるなら、「何時だと思ってんだよこのクソボケが」なのだけれど。理性がギリギリのところで仕事した結果だ。

 ドアを開けるとそこにはラフな格好をしたマティウスが立っていた。
 髪を整えていないと少年っぽさが増して、燭台片手に立つ姿はどことなく頼りない。

「どうされました?」

 言語変換の魔術を張るのも面倒だから、努めて丁寧な物言いをする。顔に考えていることが出ないようにするのは苦手だけれど、燭台の灯りのもとでは大して表情が見えないのが幸いした。たぶん今、ものすごい顔をしているだろうから。

「いや、あの……もう少しカティと一緒にいたいと思って」

 来た来た来た来た。
 これが噂の“夜這い”ってやつですか。夜這い、やばい。
 そんなしおらしい顔をして、いざ自分の部屋に引き込んだら野獣が目覚めるんだろ? その手に乗るわけにはいかないんだよ! お金がかかってるからな!
 という心の声は抑えて、わたしはにっこりとマティウスを見上げる。

「もう遅い時間ですし、お話ならまた明日しましょう」

 わたしがこう言って、もし荒っぽい手に出るのなら魔術で昏倒させればいいだけだ。何せわたしは攻撃特化の魔術師なのだから。セバスティアンがわたしをスカウトした理由のひとつがおそらくそれなのだろう。
 ところがマティウスは、荒っぽいどころか真逆の作戦に打って出た。

「……一緒に寝てはもらえないだろうか……?」
「……はぁ?」

 まさかの発言だ。まさかの甘えん坊作戦だ。赤ちゃんかよ。ベッドへの誘い文句だったらもっと別のがあるでしょうがよ。
 呆れて、つい素が出てしまった。
 マティウスは、そんなわたしの心の中のツッコミを知らないから、困ったように眉を下げて切なげな目で見てくる。
 美男子の切ない顔なんて、そのへんのおぼこいお嬢ちゃんならイチコロの威力だろう。
 でも、わたしの心の防御壁を舐めてもらったら困る。
 もしお金と美男子を天秤にかけたら、美男子が吹っ飛んでいく勢いでお金に振り切るくらいにわたしにとってお金が大切なのだから。

「……眠れないんですか? それでしたら、何か子守唄でも歌いましょうか」

 甘えん坊作戦が通じないふりをして、わたしは答えた。これが五歳くらいの可愛い子供相手だったら添い寝でも何でもしてあげるのに。まぁそもそも、この男の言っている「一緒に寝て」はそういう意味ではないのだろうけれど。

「子守唄か……お願いしてもいいだろうか」

 キュッと、わたしの部屋着の袖を引き、マティウスは言った。子供が母親をどこかに連れて行きたいときにやるあの仕草のように、そのままキュッキュと袖を引いてマティウスはわたしを自分の部屋のほうへ歩かせた。

(ええぇー⁉︎)
 歌ってやると言った手前、ここで断るわけにはいかないけれど、めげないこの男の姿勢に度肝を抜かれる。こんなムードも何もない状態でいいわけ? と言いたい。もしかして、“子守唄”は何かの隠語だったりするのだろうか。

「じゃあカティ、頼む」
「……はぁ」

 部屋に着くと、マティウスは迷わずベッドに潜り込んでこちらを見てくる。服は着たままだ。……わたしにどうしろと?

「何を歌おうか迷っているのか? それなら、あまり淋しくならないのがいいな。子守唄って、気持ちを落ち着かせるためか、何だか暗い歌もあるだろう? ……あれは嫌だ」

 まさかの展開だけれど、マティウスは本気で子守唄を所望しているらしい。あれか。野獣はおねむなのか。

「……わかりました」

 とは言ったものの、わたしは自分が子守唄を知らないことに気がついた。赤ん坊のときは違ったのかもしれないけれど、物心ついたときはひとりで寝ることが多かったし、母がそばにいるときはただ手を握ってくれていただけだった気がする。
 だから、歌ってやりたくても歌えないのだ。

「ーー眠りを」

 代わりに、眠りの魔術を唱えた。不眠症の魔術師が自らの健康のために編み出したと言われている有名な魔術。
 魔術式を覚えるのが簡単なためか、初歩段階で教えられるこれを、正しく使ったのは初めてだ。これまで、穏便に相手の意識を奪う際にしか使ってこなかったのだ。
 戦闘中などの構えているときにはなかなかかからないものだけれど、こんなふうに隙だらけなら確実におとせる。
 マティウスはまるで幼い子供のように健やかな寝息をたてて眠りについていた。

「良い夢を見てね、坊っちゃま」

 起き出さないのを確認して、わたしは部屋を出た。
 構えていたのに何事もなくて、まるで詐欺にでもあった気分だ。
 十七歳の立派な男子が子守唄を所望するのは正直ドン引きだけれど、だからと言って逃げ出したいなどとは思わない。
 それなら、なぜ彼に仕えていた女性使用人たちは居つかなかったのだろう。
 気になることはあるけれど、とにかく今日は疲れた。
 何としてでもこの仕事をやり遂げて大金を掴んでやるのだから、とりあえず今夜は眠らなければ。


 一夜明けて。
 朝食の席には、ツヤツヤの顔をしたマティウスが先にいた。その後ろには、あのセバスティアンも。

「おはよう、カティ。カティのおかげでよく眠れて、今日はすごく気分がいい」
「そうですか。それはよかった」
「子守唄を歌ってもらったはずなのに、何も覚えていないんだ」
「お疲れだったんですね」
「ちゃんと聴きたかったんだけどな」

 マティウスは、綺麗な微笑みをわたしに向ける。
 ああ、美男子の笑顔は朝から眩しい。
 こうして見ると、夕食の席では人見知りをしていたのかなという気がしてきた。
 昨日の夜の姿を見る限り、野獣ではない。
 野獣とは真逆の、子犬ちゃん属性だった。
 マティウスは、姿だけで言えば甘さよりも鋭さや凛々しさが目立つ。だから、甘えん坊だなんて見せられたこっちとしては恐怖体験だ。

「仲良くなられたようで、良かったです」

 何も知らないセバスティアンは、嬉しそうに笑っていた。
 ……このジジイ、油断ならねぇ。
 何のツッコミもフォローもないまま笑っているだなんて、担がれているのではないかという気がしてきた。

 何が嘘で何が本当なのか、わたしは見極めなければならない。