少しずつ色づき始めた庭木を眺めながら、もう夏が、休暇が終わろうとしているのを感じていた。
 休暇を丸々このエッフェンベルグ家で過ごしたけれど、こうしてゆっくりと庭を歩き回るのは初めてだ。
 マティウスが大人の男の人に対する苦手意識を克服し始めてから、敷地内で庭師などの姿を見るようになった。これまでは随分と巧みに姿を隠して仕事をしていたようだ。そんな彼らに「あまり植物を痛めつけないでください」と言われた。
 わたしがただ植わっているだけのものだと思っていた木々も、彼らが日々手入れしていたものだったらしい。それをマティウスとの戦闘訓練の余波で傷つけていたということで、やんわりと注意されてしまったのだ。
 だから、それからはより一層厳重に庭に防護壁の陣を張るようになったし、必要以上に大きな魔術を使うのはやめた。

 そして今は、庭師の人々に対しての敬意を表してゆっくりと庭を堪能させてもらっている。
 本来の目的は違うのだけれど、もうしばらくここへ来ることはないから見ておきたいと思ったのだ。

 マティウスにも話したけれど、貧しい日々を過ごしていたせいか、これまで植物なんて食べられるか否かでしか判断してこなかった。だから、食べられる野草については知識があっても、それ以外は“木”とか“花”という認識しかない。
 でも、こうしてじっくりと見てみると枝ぶりや葉の形などがそれぞれ違っていて、木とひとくくりに言っても色々あることがわかる。


「……やっと見つけた」

 木々の間の、少し開けた場所にわたしが探していた人はいた。
 この家でたぶん一番忙しい人なのに、屋外作業に適した服装でこんなところで土を弄っているなんて誰が思うだろう。

「セバスティアンさん」

 背を丸め、土をせっせと混ぜている後ろ姿にわたしは声をかける。それに反応して、セバスティアンはゆっくりとこちらを振り返った。

「おや、カティさま。どうされましたか? マティウスさまならこの時間は温室にいらっしゃいますが」
「違うんです。セバスティアンさんにお話があってきたんです」
「わたくしに、ですか」

 セバスティアンはスコップを置いて、おもむろに姿勢を正した。
 たぶん、わたしが何を聞きに来たのかわかっているのだろう。
 だからわたしは、前置きも何もなく真っ直ぐに尋ねることにした。

「今回のことは、どこから仕組まれていたんですか?」

 自分の身に起きたことだけれど、あまりにも出来すぎている。
 そのことに対して不満があるわけではないけれど、どの辺りからこの好々爺の手の内にいたのかは知っておきたいと思ったのだ。

「仕組んでいただなんて、とんでもないことでございます。わたくしは、何も」
「嘘ですよ、それ。だって、奥様に気に入っていただけて、マティウスさまとも仲良くなって、その結果、わたしはエッフェンベルグ家から多大な援助を受けることができるようになった。……こんなの、出来すぎじゃありませんか?」
「それは、カティさまが日頃から良い行いをしていたからですよ。神様が見ていた、というやつです」

 セバスティアンは柔らかく微笑んだまま、あくまで白を切るつもりでいるらしい。……このジジイ、本当に食えない。

「でも、あの嵐の日に坊っちゃま命のあなたがマティウスさまの居場所がわからなかったとは思えないんです。……あれは、わたしを動かすためにわざと黙っていたんですよね?」

 マティウスの抱える問題が一気に明るみになるきっかけとなったあの嵐の夜。
 あの日のことがなければ、わたしたちの関係は違っていたかもしれない。エッフェンベルグ家とわたしの関係も。
 嵐までこの好々爺が仕組んだとは思えないけれど、今考えればあのときほどこのジジイの手の上で踊らされたことはないだろう。

「マティウスさまは温室のことを秘密の場所と言っていたけれど、あなたまで知らないわけがないもの。だって、マティウスさまが学院にいる間は花の世話をする人が必要でしょうから」

 魔術によって花の特性に合わせて光の当たり方や温度を調節することはできても、日々の水やりや手入れは必要なはずだ。他の使用人に心を開いていないのだから、その世話はセバスティアンがするしかない。
 だから、そのセバスティアンがマティウスがあの温室によくいることを知らないわけはないのだ。

「カティさまがマティウスさまのためにどれだけ動いてくださるのか、知りたいという思いはありました。ーーカティさまは、本当にマティウスさまのことを思って行動してくださいました。そのおかげで、エッフェンベルグ家の人々は幸せになりました」

 しみじみと噛みしめるように、セバスティアンは言った。
 何かを企むなんてことが考えられないような、穏やかなこの顔。みんなが気づかずにいても仕方がない気がする。

「わたくしはただ、この家の方々に幸せになっていただきたいのです。旦那様にも奥様にも、マティウスさまにも足りないものがあって、必要なものがあって、それが欠けたまま、そのせいで噛み合わないまま生活してらっしゃいました。そこへカティさまがいらして、補ったり、架け橋になったりしてくださったおかげで皆様の関係はより良いものになりました。ありがとうございます」
「わたしは、何も……」

 正面切ってお礼を言われるのは、どう反応したらいいかわからなくなる。
 しかも、自分がしたこと以上に評価されてしまうのは、何とも言えずむず痒い。

「わたしこそ、セバスティアンさんにお礼を言わなくてはいけません。……この仕事を任せてくださってありがとうございます」
「わたくしはただ、この家をよりよく回して行くために適切な人材にお声をかけさせていただいたまでですよ」
「適切な人材、ですか……」

 事前に調査したとは言っていたけれど、学院内でのことなんて一体誰に聞いたのだろう。
 この人なら、とんでもない情報網を持っていても驚かないけれど。

「ミセス・ブルーメが躾に厳しくしていると言っていただけあって、カティさまの淑女らしい振る舞いには感心いたしました。時々言葉が乱れることも、屋敷に滞在している間に随分と少なくなりましたし」

 わたしの疑問に答えるように、セバスティアンは意味深な笑みを浮かべてそんなことを言う。
 ……この言い方をするということは、この人には最初から言語変換の魔術が通じていなかったのかもしれない。
 そしてもうひとつ気になるのは、セバスティアンの口から馴染みのある名前が出たことだ。

「……ミセス・ブルーメとお知り合いだったんですね」
「ええ。古い知り合いです」
「そうだったんですね……」

 何と言うか、彼女の名前が出たことで色々と腑に落ちてしまった。
 いつも寮で院生の世話をしてくれている寮母のミセス・ブルーメなら、わたしの何を知っていてもおかしくない。
 ということは、わたしをセバスティアンに推薦したのはミセス・ブルーメなのかもしれない。いちいち確認するのも野暮だから、もうその辺りをはっきりさせようとは思わないけれど。

「若い人たちがきちんと育つように、我々年寄りは土をせっせと耕すのです。ーー立派に咲いてくださいませ、カタリーネさま」

 そう言って、セバスティアンはわたしに土の入ったバケツを手渡す。

「マティウスさまに頼まれていた土です。温室まで届けていただけますか?」
「わかりました」

 バケツを持って、わたしは歩き出す。植物に詳しくないからその土がどういったものなのかわからないけれど、肥料や湿度管理などにこだわって作られたものなのかなという想像はできた。
 マティウスが植物を育てるのが好きだから土を作ってしまうなんて、あのじいさんの坊っちゃま好きもかなりのものだ。



「マティウスさま、セバスティアンさんから土を預かってきましたよ」
「カティ!」

 温室に入って声をかけると、マティウスはこちはを振り返った。そして、嬉しそうに笑った。
 わたしは、わたしのことを見てこんなに嬉しそうにする人を他に知らない。わたしが名前を呼ぶだけで、幸せそうにする人を他に知らない。

「光や温度の調節をしていたんですか?」
「ああ。明日学院に向けて出発したら、しばらく戻って来れないからな」

 土を受け取りながら、マティウスは慈しむような視線を植物に向ける。手間をかけて育てられているだけあって、この温室の植物たちは瑞々しく生命力に溢れている。
 マティウスは攻撃魔術はまだまだでも、命に寄り添う魔術は抜群に優れている。そこを伸ばしていければ、もしかしたら魔術従士の道もあるかもしれない。……本人は戦闘に特化した魔術師になりたいと言うけれど。

「ちょうど良かった。カティに渡したいものがあったんだ。これだ」
「お花、ですか?」

 マティウスは作業台の上にあった鉢をわたしに示した。その鉢には青々とした葉をつけた植物が生えているけれど、まだ蕾も花もないからそれが何の植物なのかわたしには全くわからない。

「カティにプレゼントしたくて品種改良したんだ。学院に戻ると一緒にいられる時間が減ってしまうから、これを寮の部屋に飾ってもらえば、いつでもわたしを思い出してもらえると思ってな」

 マティウスはそう誇らしげに言う。でも、花なんてもらうのは初めてだし、育てたことももちろんないわたしとしては少し戸惑ってしまう。マティウスが大事に育てたこの鉢をダメにしてしまうのは、絶対に嫌だ。

「ありがとう。枯らさないように気をつけます」
「ちなみに毒はないが食べても美味しくないと思う」
「……食べませんよ」

 この人はちょいちょいいらんこと言うなぁと思ったけれど、嫌味で言ったわけではなさそうだから仕方がない。でも、その言い方だとわたしが花と見れば何でも食べてしまうみたいで少し心外だ。
 まぁ、わたしが言った些細な言葉も覚えていてくれるのは嬉しいけれど。

「この植物は花をつけるまで時間がかかるんだが、青い花が咲く予定なんだ」
「……もしかして、名前は“マティウス”ですか?」
「よくわかったな! さすがカティだ」

 わたしにプレゼントするために品種改良したというだけあって、徹底している。青い花というのは、マティウスの瞳の色に合わせたものだったのか。
 照れも何もなくそういったことができるのは、この人が育ちがいいからなのだろうなぁと感心してしまう。そしてそういうところが、決してわたしは嫌いじゃない。

「カティ」

 唐突にマティウスがわたしの足元に跪く。見上げる瞳は真剣で、凛々しい顔立ちに似合っている。

「何ですか、マティウスさま?」

 マティウスにつられて、わたしも緊張してしまう。ただでさえこの目にジッと見られるとドキドキしてしまうのに、見つめるほうもドキドキしている様子だと、それは伝染してしまう。

「私はまだ未熟だが、この花が咲くまでには立派になる。だから、この花が咲いたら私と結婚してもらえるだろうか?」

 頬を赤らめて、でも口元は引き締めてマティウスは言った。
 予想していたけれど改めて言われると、わたしは胸の高鳴りをもう押さえることができなかった。ドキドキしすぎて、息ができなくなりそう。

「もちろん。この花が立派に咲くよう、わたしもお世話を頑張りますね」
「ああ、大切にしてくれ」

 マティウスは、わたしの手をそっと握った。手を繋ぐというその恋人らしいやりとりに、わたしはまた照れてしまう。それはマティウスも同じらしく、さっきよりも顔を赤くしていた。
 わたしたちはまだ始まったばかりで、何をするにも恥ずかしさがつきまとう。

「カティは、私のどんなところを好いていてくれるんだ?」

 期待いっぱいの眼差しで、マティウスはわたしを見つめる。ああ、これが恋人たちがやるという実にくだらない問答か。話に聞く分には何て阿呆なんだと思っていたけれど……ちょっと楽しいかもしれない。

「顔と金……って言ったらどうしますか?」
「じゃあ、その二つをなくさないよう努める。……私はカティのすべてが好きだ!」
「物好きですね」

 感極まったマティウスに抱きしめられながら、わたしは本当にこの人は物好きだなぁと思った。でも、物好きなこの人がいてくれてよかったと、心から思った。
 愛されなければ、愛することもなく生きていったと思う。お金さえあれば、生きていけると信じていたのだから。
 でも、そんなふうにひとりでいたら、母がどんな思いでわたしを育ててくれたのかも、きっと一生わからずにいたのだと思う。

「カティ、私を好きになってくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」

 お互いにお礼を言い合って、恥ずかしくなってわたしたちは笑った。ひとしきり笑ったあと、体を離して見つめ合う。

「カティ、キスしていいだろうか?」
「……そういうこと、聞いちゃダメですってば」

 言いながら、わたしは背伸びをして目を閉じた。心臓が、また一段階速さを上げる。こんなに心臓を酷使してしまっても大丈夫なのか不安になるくらいの速さだ。
 でも、いざ柔らかなものが唇に触れると、そんなものとは比べものにならないほどの心臓の動きに、わたしはこのまま死んでしまうのではないかと思った。

「死ねないけどね」

 唇が離れて、目を開けるとそこには喜びに震えるマティウスがいた。マティウスの青い瞳にも同じような様子のわたしが映っていた。
 それを見て、わたしは小さく呟く。
 まだ死ねない。もっともっと生きていく。この人と手を取って。

 わたしたちは、花咲く途中。
 やりたいこともやらなければならないこともたくさんある。
 だから、明日へと向かって生きていく。

 そんな思いを胸に、今度はわたしからマティウスの頬に口づけた。