(ここは、どこだろう……?)

 意識を取り戻したのに、わたしの視界は塞がれたままだった。どうやら、目隠しをされてしまっているらしい。ご丁寧に、手首も縛ってある。
 気絶させられたわたしは何者かに連れ去られ、目隠しをされてどこかに転がされているということだ。
 とりあえず状況は掴めたけれど、それが何かの助けになるとは思えない。

(最悪だ。……油断、しきってたな)

 これまでなら、学院で誰に恨みを買っているともわからないから外出するときは慎重さがあったのに。
 わたしはどうもエッフェンベルグ家で過ごすうちに、生きるのに必要な警戒心というものをなくしてしまっていたみたいだ。
 本当ならわたしは、ひとりで行動すべきじゃなかったのだ。夫人たちについていって、離れずに行動すべきだった。
 まさか自分がこうして拐われるとは思わなかったけれど、夫人やアンドレアや拐われる可能性だってあったのだ。そのことを考えれば、やはり離れるべきではなかった。

(ていうか、わたしだけが拐われたなんて確証はない。もしかしたら、近くにいるかもしれない!)

 そう思い至って、わたしはそっと動いてみた。なぜだかわからないけど足は縛られていないから、もぞもぞ動かせば周囲の状況を少し探ることができる。
 そーっと伸ばしてみても、右足は何にも触れることがなかった。ただ何となく、煉瓦造りっぽい床だなということは知ることができた。
 左足を伸ばすと、今度は木箱のような感触がした。
 煉瓦造りの建物で木箱がまばらに置いてあるということは、もしかするとここはあまり使われていない倉庫なのかもしれない。

「何やってんのかと思ったら、もしかして逃げ出す方法でも探ってんのか?」
「……誰!?」
「さあ、誰でしょう?」

 人の気配がして、もぞもぞするのをやめた。少し離れたところから足跡が近づいてくる。扉が開いたような音は聞こえなかったから、もともと同じ空間にいたということだろうか。
 聞き覚えがある声だ。ねっとりした、いやらしい声。でも、こういうのを色気がある声だと好む女性もいるだろう。

「……アルノー・ギースラー」
「ご名答。てか、その名で呼ぶなよ。今はアダム・グラマンっていう、ちょっと上品そうな名前でやってるんだからさ。あと、お前のお父さんだろ」
「……くそがっ」

 目隠しを外され、目の前に現れた顔に吐き気がした。
 そこにいたのはずっとわたしが憎み続けている男。できれば二度と会いたくなかったし、会わないままとっ捕まってついでに死んでくれと思っていた相手だ。

「何が目的でこんなことするんわけ!?」
「何が目的って、パパが娘の顔を見たいと思って何が悪いんだ? 娘よ、お前もお父さんに会いたかっただろう?」

 アルノー・ギースラーは、反吐が出そうなほど甘ったるいにやけ顔で言う。

「近寄るな! ……うっ! ゴホッ、ゲホッ……」

 今度こそ消し炭にしてやろうと思って魔術を発動しようとしたら、喉が焼けるように痛かった。呪文が唱えられないどころか、咳き込んで呼吸もままならなくなってしまった。

「おいおいおい、何しようとしたんだ? あー、やっぱその首のやつ、つけといてよかったわ。それな、わざわざ異国から取り寄せてる魔封じの首輪らしい。効果あったなー」
「魔、封じ……?」
「魔術師とか魔法使いの呪文詠唱を阻害するもんなんだと。この国じゃ絶対に許されねーが、他国じゃ魔術も魔法も邪悪でいらないものってとこも珍しくねえからな」

 アルノー・ギースラーのご丁寧な説明で、わたしは自分が魔術の使えないただの子供になってしまっている状況を理解した。
 これまでずっと栄養状態の悪いままで生きてきたから、痩せっぽっちで筋肉もない。もしかしたら、そこらへんの子供以下かもしれない。

「そうそう。おとなしくしとくのがいいぞ。俺もお前を傷つけようと思って拐ったわけじゃないからな」
「下衆が。何のためにこんなことするわけ? そんな、安くもない道具を買ってまで……」

 状況は理解できたけれど、この男の目的はまったくわからなかった。
 百貨店にいるところを拐ったのだから、かなり大変だったはずだ。
 こいつがわたしの父親だとしても、そんなリスクを冒してまでわたしを拐う理由がわからない。

「だから言ったろ。傷つけるつもりはないって。後学のために教えておいてやるが、目隠しをされて拐われた場合は、命を取られる危険は少ないって覚えとけ。無事に返す気があるから、犯人は顔を見せないし、道中の景色を覚えさせないようにするんだ。その逆で、目隠しされてないのはいざとなったら殺せばいいって思われてるってことだからな」
「……わたしを生かしておく必要があるってこと?」
「そうだ。お前は利用価値があるからな」

 とりあえず今すぐ殺されたり傷つけられることはないとわかったけれど、やっぱり目的は見えないままだ。
 落ち着かない状況のわたしを嘲笑うかのように、アルノー・ギースラーはニヤニヤしていた。

「お前のこと、調べさせてもらったよ。魔術学院に特待生で入れるほど優秀なんだってな。読み書きもろくにできない母親から生まれたにしちゃ、かなり出来がいいな。まあ、女が勉強できて何になるんだとは思うが」

 お母さんのことも自分のことも馬鹿にされて、ものすごく腹が立った。でも、この手の男尊女卑な考え方なんて世の中に嫌というほど溢れているから、今さら噛み付こうとは思えない。
 わたしが何も言わないのを見て、アルノー・ギースラーは少し不満そうな顔をする。

「女はいいよな。若いうちなんか特に、脚を開けば簡単に金が手に入る。お前、身体は貧相だがよく見りゃ可愛いから、リディと同じくらいは稼げるだろうな。逆に、その子供みたいな身体を使って今のうちに荒稼ぎするってのも手だ。そういう店で働いて、親孝行する気はねぇか?」
「……わたしを売り飛ばす気で拐ったの?」
「そうそう。今から競りにかけに行くんだぞー。きれいな服を着ててくれて助かったわ。――なーんてな。お前はそれよりもっといい使い道があるだろ」

 わたしを追い詰めるのが楽しいのか、アルノー・ギースラーはニヤニヤしている。わたしが嫌がるのがわかっていて、わざと距離を詰めて話してくるのも腹が立つ。

「ここまで話してもわかんねぇか。誘拐だよ、誘拐。お前、あの家の連中に気に入られてるみたいだからさ、拐って身代金を要求したら払うだろうなと考えたんだよ。いやー、調べたらいろいろわかるもんだな。お前の魔術学院での生活も、お前がいかにあの金持ちたちに気に入られてるかもわかるんだよ」

 鈍いわたしに痺れを切らしたのか、アルノー・ギースラーはとっておきのお知らせをするかのような調子で言った。
 すごいことを思いついたつもりなのだろうけれど、わたしはそれが実現可能だとはとても思えなかった。

「そんな……払うわけない! こんなことしたって無意味よ!」
「お、そこは自信ないのか。安心しろ。見てたらあの奥様たち、お前がいないことに気づいてからひどい慌てようだったからな。今頃お前の身柄と金を交換するって手紙を受け取って、言われた額だけ金を用意してる最中だろうよ。可愛がられてんだな」

 おかしくてたまらないというようにアルノー・ギースラーは笑った。馬鹿にされているということと、夫人やアンドレアにそんな思いをさせたということに、わたしの血液は一気に沸騰してしまいそうだった。

「くそっ!」
「いてぇな! 親を蹴るなんてどういう躾を受けてんだ!」
「うっ……」

 蹴り飛ばしてやろうとしたら大したダメージを与えられなかった上、激しく頬をぶたれてしまった。
 口の中に血の味がする。口内が切れたみたいだ。

「お前が商品でなけりゃ、今頃ボコボコにしてるところだ。調子に乗るなよ」
「……商品って?」
「身代金を無事にもらえたら、お前をどっかの娼館にでも売っ払うってことだ。どうだ、完璧な計画だろ? 俺はもうこのあたりにはいられねえから、少しでも逃亡資金がいるんだ。お前を拐って身代金をせしめて、そのあと売って金に換えたら、しばらくどこにでも潜ってられるからな」
「……あんたは、本当にクズなんだな」

 ただの腐った悪党のくせに自分を賢いと思っている目の前の男が気持ち悪くて、わたしはまた吐きそうになった。
 怒りで腸(はらわた)が煮えくり返るとは、こういうことをいうのだろう。
 でも、わたしに悪態をつかれても、この男はびくともしない。

「お前だって俺のこと言えないだろ。魔術学院で出会った坊っちゃんを引っかけて、奥様まで手玉に取って、自分の将来のために利用する気満々だったじゃねえか」
「そんなんじゃない!」
「このままうまくいけば坊っちゃんと結婚できるんじゃねぇかとか考えてたんだろ? でもな、もうあきらめろ。無事に帰れたところで誰がキズモノになった、おまけに孤児だった女と結婚するんだよ。お前は何もされてないって主張するだろうが、誰も信じない。貴族や金持ちってのは体面を気にするからな。残念だったなぁ。玉の輿に乗りたかったんだろうに」

 楽しそうに笑うこいつを見て、わたしはようやくこの下衆の目的を理解した。
 身代金がほしいのも、わたしを売り払って金を得ようとしているのも本当なんだろう。
 でも、それはおまけにすぎない。こいつはたぶん、わたしを不幸にしたいのだ。
 騙した女が生んだ子供が、自分よりうまく人生を歩もうとしているのが許せない。しかも自分の計画を邪魔した。女の分際で、生意気にも金持ちに取り入って、楽な人生を歩んでいいわけがない――きっと、そんな薄汚れた憎悪に衝き動かされてこんなことをしたのだ。
 そんなにわたしが憎いなら、いっそ殺せばいいのにと思ってしまう。……こんなふうに大事にして、エッフェンベルグ家の人たちに迷惑をかけてほしくなかった。

「結婚に夢見るのは、やっぱり母親譲りか。でも、身の丈に合わんことはするもんじゃないと言ってやるのも親の務めだからな。その代わり、うんといい店を紹介してやる。可愛い娘がはした金で身体を売って泥水啜って生きていくなんて、お父さんは耐えられないからなぁ。娘の就職先の心配までしてやるなんて、俺ってばなんていい父親なんだろう」
「……なにが父親だ」

 吐き捨てるように言ってみたけれど、全然気持ちは楽にならなかった。
 エッフェンベルグ氏は「父親だと証明する方法がない」と言ったけれど、こうして顔を突き合わせると疑うほうが難しい気がしてきてしまう。
 この男の目の色を、わたしは知っている。たかが目の色と言われるかもしれないけれど、鏡に自分を映すたびに見ていたものだ。それと同じ色が目の前にあることは、否が応でも血のつながりを感じさせる。

「よしよし。おとなしくしてろよ。暴れたところで男の俺には勝てねえし、見張りに怖い兄ちゃんたちを雇ってるからな。逃げ出そうなんて考えないことだ」

 わたしをいじめるのに飽きたらしく、アルノー・ギースラーは倉庫の奥に消えていった。
 倉庫は、思いの外広いようで、扉が開くとき一瞬光がさしたけれど、閉まると薄暗くて、どこに何があるのか見えなくなってしまった。

「……これからどうしよう」

 呟いてみたところで、何も浮かばなかった。
 自分が拐われる想定なんてして生きてこなかったから、こんなときにどうしていいかわからない。
 声は出せるけれど、ここで助けを求めても意味がないだろう。足は縛られていないから歩いてどこかに行くこともできるものの、ここがどこかもわからず飛び出すのは無謀だ。見張りもいるというのに、魔術も使えず手は縛られていては、戦いようがない。
 
「……身代金、出さないでいてくれたらいいな」

 無駄だとわかっていても、祈るように呟いてしまった。
 エッフェンベルグ家の人たちは、優しくて善良だから身代金を言われるがままに払ってしまうだろう。
 ただの使用人の小娘に、どうか無事で帰ってきてくれと言ってしまう人たちだ、彼らは。
 今頃、夫人とアンドレアはもしかしたら自分たちを責めているかもしれない。わたしから目を離さなければよかったと。自分たちがきちんとそばにいればよかったと。
 きっとマティウスも心配している。彼のことだから、もしかしたら取り乱しているかもしれない。あの手のタイプは、お気に入りのものが手元からなくなると調子を崩すから。
 ……彼がわたしに抱いている感情が愛着以上のものだという自負があるぶん、すごく心配だ。
 でも、あの男がいうように、もう戻れないのも確かだ。

「マティウスさまともお出かけ、してみたかったな……」

 こんなわたしでも、好きな人と出かけてみたいという願望くらいある。というより、マティウスを好きだと自覚してから、彼とどこかに行ってみたいと思うようになったのだ。
 本当は、今日の外出に彼もついてくると言い張っていたのをわたしは断っていた。
 初めての百貨店なのに、そこに好きな人も付き添ってくるとなると、とてもではないけれど自分が正気でいられる気がしなかったから。
 どうせなら百貨店もデートもきちんと楽しみたい。だから今日のところは遠慮してもらって、今度日を改めてどこかに行こうと思っていたのだ。
 でも、こんなことになるなら今日一緒に出かけておけばよかった。そうしたら、きっと夫人たちが化粧室に行ったときもマティウスは一緒にいてくれて、わたしは拐われる隙なんてなかったはずだ。
 後悔してももう遅いけれど、悔やまずにはいられない。
 マティウスは、こんなわたしでも好きだと言ってくれた初めての人だから。手を離さずにいて、できたらずっと一緒にいたかった。

「……帰りたい。マティウスさまのところに」

 言葉と一緒に涙がこみ上げてきて、こんなにも彼を好きになっていたのだと思い知らされる。
 戻れなくてもいい。せめて最後にもう一度会いたい。
 そのためにはここから何とかして脱出しなければならないから、わたしは頭を振って涙を飛ばして、ふらつきながらも立ち上がった。

(まずは、手の自由を取り戻さなきゃね)

 手を動かせるようになれば最悪戦うことはできるだろうし、脱出するには手は自由なほうがいい。
 薄明かりを頼りに木箱に近づいていって、角に手首を縛る縄をこすりつけてみる。角に引っ掛けるようにすれば、ほんのわずかに隙間ができたように感じられた。
 脱臼してもいいからとりあえず手を縄から抜けないかと思って引っ張ったりひねったりするものの、なかなか外れない。人を拐い慣れているだろうやつだから、縄の縛り方もうまいということだろうか。
 こんなことなら魔術のほかにも、格闘術や縄抜けなんかも練習しておけばよかったと後悔する。
 
「え? 今の、何の音?」

 さてこれからどうしようかと途方にくれていると、どこかからか大きな音が聞こえた。
 少しするとそれに反応するように何者かが近づいてくる乱暴な足音がして、わたしは慌てて身構えた。