努めて軽く言ったつもりだったのに、思いのほか重い響きになってしまった。
 もし許されなかったとしても、さらりと何事もなかったようにマティウスの元を去りたいーーそんなふうに思っているのに、これじゃあまるでマティウスを脅しているみたいだ。
 マティウスがわたしを愛していると言ってくれても、マティウスはエッフェンベルグ家の人だ。立場がある。そうなると、わたしとの関係が許されないことは往々にしてあり得る話だ。
 だから、たとえそうなっても気にしないよと言いたかったのに……気持ちを隠すことすらうまくできなかった。
 でも、マティウスを見ると、そんなことまるで気にならなかったかのようにわたしを見て柔らかく微笑んでいた。

「それなんだが……婚約してしまおうと思うんだが」
「え?」
「私たちが愛し合っていることを両親に話して、婚約を認めてもらうんだ。一時の感情ではなく結婚したいくらいお互いのことを好きになってしまったと言って、父と母が反対するだろうか?」

 心配していたのが馬鹿らしくなるくらい、マティウスはポジティブだった。悪い方に考えるということをまるでしないらしい。しかも、考え方が飛躍している。
 何段階もすっ飛ばしたその考え方には、本気で驚かされる。

「カティ、何をそんなに驚いているんだ? 私は最初、本当に君と無理やり夜を共にして、騒ぎを起こそうと思っていたんだ。君をそんなふうにしたことが母の耳に入れば、君を気に入っている母のことだから、きっと『責任を取りなさい』と言うだろうと思ってね」
「……はい?」

 爽やかな顔をしたマティウスの口から飛び出す爆弾に、わたしは開いた口が塞がらなかった。この人、さらりととんでもないことを言う。
 果たして夫人がそんなに単純な人かと考えるとよくわからないけれど、今の発言でどうしてマティウスが上半身裸で寝ていたか納得した。魔術で眠らされた理由にも。
 そして、知らぬ間に自分の身に危険が及んでいたという事実に改めて体が震えた。
 いくら好きな相手でも、そんな不穏なことを思って見つめられていたのだと思うと落ち着かない。……やっぱりマティウスはケダモノなのかもしれない。

「でも、眠るカティを見て思いとどまったんだ。こんな愛しいものにひどいことはできないって。それに、せっかく思いが通じ合ったのに強引な形を取ることはないと思ってね」

 自分の体を抱きしめるわたしを、マティウスは熱のこもった目で見つめた。
 手荒なことはされないとわかっていても、この目は苦手だ。落ち着かなくなる。

「カティが嫌だと思ううちは決して無理に事を進めたりしないから安心してくれ。父と母には、許されるまで話を聞いてもらおう。……どうあっても、私はカティを手放す気はないんだ」
「……はい」

 眼差しを少し緩めて、マティウスは優しく言った。嬉しくないわけではないけれど、こうして女の子扱いをされたのも、ましてやこんなふうに求められたこともなかったからどう反応していいかわからない。

 わたしはここへバイトに来たのであって、恋をしに来たわけではないのだから。
 ……何もかも、予定外だ。

「カティ……食べないのか? 体調が悪いのなら私が食べさせてやろうか?」
「いえ、大丈夫です」

 スプーンを手にわたしへ向き直ったマティウスが、新しい遊びを考えた子供の顔だったから、わたしは慌ててサラダに手をつけた。
 それが作戦だったのか、それともわたしが食事をするなら何だってよかったのか、マティウスはわたしが食べる様子を満足そうに眺めていた。

「……豪華な朝食ですね」

 ポツリと呟くと、マティウスが思いきり目を細めて笑った。満足げという言葉がしっくりくる、そんな笑顔。

「セバスティアンが『喜ばしい朝ですから』と言っていたからな」

 わたしが着替えている間にそんな会話がなされていたなんて、少し恥ずかしい。
 でも、そう言ってくれるということは、少なくともセバスティアンは二人の仲を認めてくれているということなのだろうか。
 不安しかないけれど、そう思うと少し気持ちが楽になった。






「カティ、昨夜は大変だったね」
「……あ、はい」

 サロンに呼ばれ、エッフェンベルグ氏と対峙してそう言われ、わたしは一瞬マティウスとのことを言われたのだと思って焦った。でも、よく考えたら父親のことだ。昨夜あんなにボロボロになっていたのに、今朝のマティウスのことのほうがショッキングですっかり忘れてしまっていた。そのことに我ながらちょっと呆れる。

「グラマン氏……本当の名はギースラーと言ったね。実は彼のことで夜半に動きがあって私も大変だったんだ。私と契約を交わす予定だった事業以外のことで彼に疑いを持っていた人たちがいて、ようやく裏が取れたということでね。別邸がてんやわんやだったんだよ。実際にすでに詐欺の被害にあっていた人もいるらしいんだ」
「そうなんですか……」
「大捕物っていうのかな。ああいうのは物語の中だけでいいね」

 晩餐会に遠方から来た客人たちはここより少し離れたところにあるエッフェンベルグ家の別邸に泊まっているとは聞いていたけれど、わたしが吐いたり泣いたりしたあとマティウスに眠らされている間、そんなことがあっていたなんて信じられない。
 それを大捕物という言葉で片付けてしまう氏もすごいけれど。

「それで、あの男は?」
「それが、昨夜はうまいこと逃げられてしまったらしい。でも、長くは逃亡できないはずだよ。後ろ盾だったバウスネルン家は彼に騙されていたと主張しているから、逃げ続ける資金がない。だから、じきに捕まるさ」
「……そうですね」

 奴の悪事が露見したのはよかったけれど、捕まっていないのだと聞いて胸の奥がざわついた。マティウスが言ったように、わたしは嫌悪だけでなく恐怖もあるのかもしない。でも、そんなことを氏に伝えても仕方がないから黙っておく。

「問題はバウスネルン家だけどね。腐っても男爵家。しっかりとした証拠を集めない限り下手に手が出せないんだ」
「放っておけば自滅するだろう。何せ息子が馬鹿だ」

 バウスネルン家の話になった途端、それまで黙っていたマティウスが口を開いた。よほど嫌いなのだろう。わたしも嫌いだから気持ちはわかるけれど。氏も「馬鹿だからって侮ってはいけないよ。馬鹿だからって脅威になり得ないわけじゃないんだから」などと言っていて、親子揃って馬鹿馬鹿と連呼している。
 それから話題はいつの間にかギースラーの話からバウスネルン家の話になり、それがやがて貴族全体の話に及んでいった。
 自身も貴族社会出身ゆえ汚い部分もたくさん見えるのか、エッフェンベルグ氏は懇々とそういったことをマティウスに語って聞かせていた。

 そして、わたしの存在は忘れてしまったらしかった。

 呼び出されたということは、父親のことでわたしに話があるのだと思ったのに、昨夜の顛末を話したきり氏は何も言わなくなってしまった。てっきり、お咎めなり何なりがあると思っていたのに。
 もしかして最初に口にした「大変だったね」という言葉は、そういう意味ではなかったのだろうか。

「あの、旦那様……わたしに対してのお咎めは?」
「え? 何のこと?」

 ひとしきりマティウスに愚痴り終え、運ばれてきたお茶を飲んでいた氏は、本当に心当たりがないという顔でわたしに向き直った。

「ギースラーは自分をわたしの父だと名乗りました。そのことをお耳にしているとばかり思っていたのですが」

 せっかく忘れているところを思い出させるのはどうかと思ったけれど、はっきりさせなければ先へ進めない。だから、わたしは自分からあの男の話題を口にした。
 でも、ギースラーの名前を聞いても氏の表情は変わらなかった。

「聞いたよ。でも、それで君をどうこうするという気はないんだ」
「え?」
「だって、こんな言い方をしてはあれだけれど、確証がないでしょ? 彼がいくら自分は君の父だと言っても、その証は何もない」
「そうですけど」
「そんな不確かなことで大事な人材を放出するほど、私は愚かではないよ。……そんなことをしたらマティウスに嫌われる」
「旦那様……」

 解雇だとか追放だとか、そんな言葉が飛び出してもおかしくないと思っていたのに、旦那様はすべてを把握しているらしい笑顔でわたしを見つめていた。
 横に座るマティウスの顔を見上げると、彼もやはり信じられないという顔をしている。反対されたら暴れるとまで言っていたのに。
 こんなふうにあっけなく認めてもらえるなんて思っていなかった。
(マティウスの言うとおり、話せばわかってもらえるのね)
 そう安心したから、その後にエッフェンベルグ氏にかけられた言葉は予想外だったけれど。

「私は君たちのことを祝福するよ。でも、コルネリアは怒っているからね」