「マティウス、食べないの? 私が食べさせてあげましょうか?」
「……いいです。食事くらい自分でできます」
「そう? でも、私はこれまであなたにあまり構ってやっていなかったから」
「いいですって!」

 ホクホク顔の夫人と、不貞腐れた顔のマティウス。
 あの嵐の日から、朝食の席ではお馴染みとなってしまったこの光景を、わたしは見るともなしに見ていた。
 そんなわたしをマティウスは恨めしそうに、恥ずかしそうに見ているけれど、いいじゃないですかと言いたい。
 わたしはマティウスが構われずに大きくなったことで淋しい思いをしていると、エッフェンベルグ夫妻にお伝えしただけだ。淋しくて、夜寝るときも誰かにそばにいて欲しいようだと伝えたところ、念願叶ってお母様が毎晩来てくれるようになったなんて、万々歳じゃないか。
 おかげでわたしも自室で好きに過ごせるし、夫人も幸せそうだし、何も問題ない。

「私、今まであの子を立派にしなくちゃとか、そのためにはあまり甘やかさず自立を促さなくちゃなんて思って接していたけれど、それは小さいあの子には酷だったわよね……でも、今からでもきっと取り戻せるものがあるから頑張るわ!」

 なんて言って夫人も張り切っていることだし、あとはマティウスさえ腹をくくれば、すべて丸く収まるってものだ。
 愛情をかけられることはきっと彼には必要なことだ。だから、もっと夫人とマティウスの距離が縮まればいいなと思う。




「あーもー……何てことだ」

 裏庭で戦闘訓練をしようとしているのに、マティウスが何かを思い出して悶絶しているため、なかなか始められない。

「どうしたんですか?」
「いや……あの……母上が子守唄を歌いながら体をポンポンと軽く叩いて寝かしつけようとしてくれたんだが……それがあまりにも恥ずかしくて」
「何を今さら」
「いや、まぁそうなんだが……まるで小さな子供になった気分で、これまで自分がしてもらいたがっていたことがすごく恥ずかしいことなのだと気がついて……」

 マティウスは顔を赤くして、頭を抱えて今にもその辺に転がってのたうちまわりそうだ。
 ここ最近毎日、この状態のマティウスをなだめてから活動を始めなければいけないのが若干億劫になってきた。

「父は父で、育てきれないほどの種をもらってきてくれるし、社交場に連れ出そうとするし」
「親子の絆を深めようとしているんですよ。いいじゃないですか」
「まぁ、父のほうはいいんだが、母はな……」

 言いよどんで、マティウスはわたしをジッと見た。何か言いたげだけれど、そんな目をされる理由がわからない。
 でも、それが不満だったのかマティウスは眉根を寄せて唇を尖らせた。拗ねているらしい。

「……どうしてカティは、私のしたことが子供じみた恥ずかしいことだと教えてくれなかったんだ」
「そう言われましても、わたしはお金で雇われているだけですから」
「じゃあ、自分の主人が恥ずかしい人間でも構わないというわけか」
「そりゃ、わたしだってお仕えするなら強くて立派な方のほうがいいですよ。というわけで、訓練を始めましょう!」
「話をまとめるな!」

 私が杖を構えたのを見るや否や、マティウスは怒った様子で何かを短く詠唱した。次の瞬間、わたしは四方を土壁に取り囲まれる。間髪入れずに攻撃してしまえばいいのに、マティウスはわたしのほうへツカツカと歩み寄ってきただけだった。

「カティ、私は今晩からひとりで寝るぞ」
「そうですか」
「それなら少しは立派か?」
「……そうですね」

 わたしより頭一つ以上背の高いマティウスは、壁の向こうからわたしを見下ろしていた。その目が熱っぽいのが、どうにも落ち着かなくさせる。
 怒ったような、それでいて切ない顔でマティウスはわたしをジッと見つめていた。まるで、何かに苛立ちを覚えているような、そんな表情。
 ここ数日、こんな目をすることが増えた。

「……閉じ込めてわたしに勝てるなんて思ったらダメですよ!」

 その視線から逃れるように、わたしは箱から飛び出した。飛ぶのも跳ぶのも、風魔術の応用だ。自分の足の下に小さなつむじ風を起こして、それを蹴り上げて跳び、そのまま体を風に乗せて飛ぶ。

「待て!」

 離れたところへひらりと着地したわたしをまた捕まえようとマティウスは土壁を出現させるけれど、同じ手は二度は食わない。

「だから、そんなんじゃダメですって!」

 わたしはマティウスの足元の地面を盛り上がらせた。突然現れた岩に足元をすくわれて、マティウスはその場に派手に転んだ。
 それでもすぐに立ち上がって、わたしの元に走ってくる。足が長くフォームも綺麗なマティウスは、走るのがとても速かった。

「ちゃんと攻撃してください!」

 炎の壁で行く手を阻み、その隙にわたしも距離を取ろうと走るけれど、マティウスは水の球を出現させ、それを壁にぶつけて壊して走り続ける。

「カティは足が遅いな」
「強ければいいんです」
「じゃあ追いかけて捕まえたら、私のほうが強いということになるな」

 走りながらひらめいたらしいマティウスは、速度を上げてわたしに迫ってくる。
 わたしが岩の塊を飛ばそうが濁流を出現させようが、それをうまく相殺しながらマティウスは走った。わたしに対しての攻撃は一切してこないけれど、馬鹿の一つ覚えのように土壁だけで応戦していた最初とはまるで違う。
 思ったとおり、センスはあるみたいだ。

「絶対に捕まえるぞ!」
「捕まりません!」

 戦闘訓練のはずなのに、いつの間にか激しい鬼ごっこのようになってしまっている。
 ともあれ、マティウスがやる気になってくれたのは良いことだ。闘争心がなくても、とりあえず戦い方のノウハウが身につけば授業は何とかなるはずだから。

 親子関係も使用人の問題も解決して、これで魔術が上達すれば文句なしだ。
 わたしは立派に仕事をやりきったとして、胸を張って休暇を終えることができる。
 ……気がかりなのは、マティウスの勘違いをきちんと正してやらないといけないことだけれど。

 マティウスの気持ちには薄々気がついている。
 たぶん、マティウスはわたしを好きなのだ。
 夫人のここ最近の行動で拗ねているのも、熱っぽい目で見てくるのも、わたしのことを好きなのだとしたら理解できる。
 でも、それは勘違いだとわたしはわかっている。
 ほんの一瞬の気の迷いだ。
 雛の刷り込みのようなものだ。
 今、一番距離が近い異性がわたしだから、そんなふうに思ってしまったのだろう。
 これから大人になって、もっと多くの人と知り合えば、そんな気持ち忘れてしまう。忘れるべきだ。
 マティウスの隣に立つべき女性は、もっと他にいる。


「待ってカティ!」
「嫌です!」

 だからわたしは、捕まるわけにはいかないのだ。