人間世界は無事、産声をあげた。

 サッサと高天原に帰ってしまった深名斗(ミナト)と違い、深名孤(ミナコ)は不安定な人間世界に留まって螺旋城を拠点にしながら、世界の基礎となる部分を作り上げていった。

 力を使って次々と、深名孤は人間世界に素晴らしい分身を誕生させていく。

 深名孤の『お人好し』思考が乗り移った、『白龍側』と後に呼ばれるようになる、鳳凰以外の霊獣達である。

 その頃は当然、岩時城など影も形も存在してはいない。

「さ。大体仕事も終わったし、素敵な世界が完成したね。高天原に帰ろっか! 爽」

「うん、そうだね。そろそろ夏休みも終わっちゃうだろうし」

 活動は、全て一段落した。

 先に高天原へ帰った深名斗が一体何を仕出かすか、少し心配でもある。

 綺麗に耕された世界はスクスクと順調に成長し始め、人間の心と心を繋ぐのに不可欠である良質な種も全て、まき終わった。

 あとは深名弧が誕生させた霊獣達が、たっぷりの栄養と水を与えて見守り、スクスクと彼らを成長させてくれるだろう。

 人間世界にどのような歴史が生まれるのか、本当に楽しみである。

 ワクワクと心躍らせた深名孤が、高天原へ帰るため白いドラゴンに変身し、人間世界を出ようとしたところ。

 問題が発生した。


 ────ボヨン!


「え?」

 強くて厚いゴムのような透明な何かに、深名孤の体がボヨ~ンと弾かれてしまう。

 彼女だけが進めなくなっている事に気がつき、爽は後ろを振り返った。

「どうしたの? 深名孤」

「何かに弾かれちゃう!」

「え?」

 確かに、深名孤の言う通りだった。

 彼女だけ、ゴムマリのような何かに弾かれ、何度も後退してしまう。

「あれ?」

 ────ボヨン!

「どうして」

 ────ボヨン!

「私だけ、出られ無いの?」

 爽は自由自在に飛べるため、あっという間に深名孤の近くまで引き返す事が出来た。

「わからない。どうしてだろう」

 不思議に思い、爽は首を傾げた。


「何なのよもう、このゴムマリ!!」


 深名孤が叫ぶと、『ゴムマリ』というワードに引っかかったのか、透明なヴェールの方角からイラッとしたような声が返って来た。

『私はゴムマ』

「えええ?!」

『ゴムマリではありません』

「ゴムマリが喋った!」

 奇跡的に、名前がすごく近かった。

 リが無いだけだった。

 でも焦っている深名孤にとって、そんな些細な事はどうだっていい。

「どうして私、出られ無いの?」

『あなた様は、入られた時とは別な御方だからです』

「私は深名孤。最初は『深名』だったけど、この世界で二体に分かれちゃったの。でも元来た時と、同じ私なのよ?」

『何度も申し上げますが、既に深名様はこの世界を出ていらっしゃいます』

「なら、それが深名斗なのよゴムマリ」

『ゴムマリではありません。私の名はゴムマです』

「どっちだっていいわ。深名斗は私の半身よ。アイツだけ出られて、私が出られないのはおかしいじゃない!」

『データが合致いたしましたので、深名様はお通しいたしました』

「だから! 私も深名なの! もうアイツとは、別々の心と体の深・名・孤になっちゃったの。私は私で、高天原へ帰らなきゃならないのよ!」

 深名孤の口調は焦りのあまり、段々余裕が無くなって、徐々に早口になってゆく。

『では、深名様のデータを、書き換えさせていただきます』

「ん? データ?」

『パスワードを教えて下さい』

「……パスワード? ナニソレ」

 深名孤はカクンと首を傾げた。

『あなたの半身だと仰る深名斗様が使用したというパスワードを、教えて下さい。それを照合いたしまして、合致したらお通しいたします』

「え? そんなの私が、知るわけ無いじゃない!」

『半身ならば記憶の中で、パスワードを共有されていても、おかしく無いのでは?』

「あんな奴と、何を共有しろっていうのよ?」

 深名孤はますます怒り出した。

 まずい。

 爽は彼女の肩に手を乗せ、落ち着けという合図を送ったが、効き目は無かった。

『いずれにしても高天原へ行かれるためには、深名孤様が深名斗さまと同一の神であるという事を、この場で証明していただく必要があります。それには最初に『深名様』が設定された、大文字と小文字の高天原語をかけ合わせた8文字以上のパスワードが必要に…………』

「ふざけないで! そんなの覚えてないに決まってる!」

 覚えているのは深名斗だけだ。

「私はこの世界を作った張本人なのよ? 私と深名斗が同一神である事くらい、あなた達には一目瞭然のはずでしょう?」

『パスワードをご存知ないという事は、あなた様が不可解な存在という認定が下されます。入る時は一体、出る時は二体という神など、前例が存在いたしません』

「…………もう!」

 融通がきかない!

「入る時は一体、出る時は二体の神だって存在するんだっつーの! んで、パスワードがわからないと出られないなんて、絶対におかしい!」

『申し訳ございませんが、あなた様を高天原へお通しすることは出来ません』

 言い方は柔らかいが、ゴムマの言葉には有無を言わせない何かがある。

「じゃあ私だけいつまでもこのまま、人間世界に留まっていろという事?」

『そうなります』

 冗談じゃない! 
 そんなのって無い。

 ちゃんと深名斗と深名孤は同一神で、この世界に来てからたまたま分離しただけだと、説明したのに。

 深名斗だけが出られるなんて。

 深名孤が何を言っても無駄だった。

 この一連の出来事に、爽も何だか不可思議な、深名孤と同じ疑問が生まれた。

 確かにこれはおかしい。

 もしかして二体が同一神という事など、ゴムマは全てお見通しなのに、わざと通さない様にしているだけなのでは?

 パスワード忘れを理由に、深名孤を人間世界に留めようとしているだけ?

 だとしたら、深名孤を人間世界に留めておきたい理由でもあるのだろうか?

 そこで爽は、螺旋城の初代『時の王』である紫蓮灯(ムーレント)を尋ね、どうして深名孤だけが人間世界を出られないのか、その理由を聞いてみた。

「簡単に言うとですね、いずれ『深名』様は生命維持が上手に出来なくなり、魂の花を螺旋城へ回収しに来るだろう、とこちらが判断したからです」

「…………え」

 でも、魂の花が人間世界に根付くまでには、相当な年月が要るだろう。

 そのくらいの予測はつく。

 無事にしっかりと根を張った状態になってから、二体の持ち主がきちんと揃った状態で抜き取りに来てもらわないと、何かと危険極まりない。

「もし万が一、大災害や外部から隕石の落下、ウイルス発生などがあった場合、人間達だけではどうにも埒が明かず、神々の力で対処してもらう必要があります。だから何としてでも、どちらかの『深名』様には残っていただきたい」

 とにかく時間を稼ぎたい。

 それが螺旋城…………いや、人間世界側の本音だ。

「深名孤を引き留めている理由ってそれ? 要はパスワードを使っての時間稼ぎ?」

「ええ。そうですね」

 人間世界側としては、高天原に続く穴という穴を全て塞いてしまい、深名孤が帰るのを止めておいて、魂の花が無事に根づくのを待っていたい。

 これは深名斗が考えた、回りくどい嫌がらせでもある。

 半身である深名孤をこの世界に閉じ込めておけば、自分は高天原で好き勝手に出来る。

 やり方が小賢しい。

 残念ながらこの時の爽には、深名孤を守ってあげられなかった。

 こうして深名孤は、まんまと自分が作った人間世界に閉じ込められてしまう羽目に陥った。

 どんなに押しても引いても、切り裂こうとしても、ゴムマは押し返してくるだけ。

 何をしても無駄。

「暴れないで。落ち着いて、深名孤。すぐにウタカタを連れて来るから」

 このままでは深名孤が、螺旋城や人間世界との関係をおかしくしてしまう。

 爽は、明るい口調で彼女に言った。

「人間の世界でしばらく、遊びながら待っててよ。聞けるようなら深名…………いや深名斗にパスワードを聞いて、すぐに戻って来るから!」

 人間の世界から出られなくなった深名孤を救うため、爽は飛翔して高天原に戻る。

 結論から言うとパスワードは聞き出せなかったし、その時の深名孤を助けることは出来なかった。

 その後何百年もの間、深名孤は高天原へは帰れず、ひょんな事から深名斗と『反転』するまでの間、人間世界の成長に力を貸し続ける事となる。

 お人好し深名孤は、自分がやっていた『夏休みの宿題』の中に、運悪く取り残されてしまったのだ。

 深名斗と深名孤はこうして現代まで、同じ世界で顔を合わせる事が出来なくなってしまったというわけである。

 鳳凰が猛スピードで高天原と人間世界を行き来できるようになったのは、こうした出来事がきっかけとなった。

 二体がどうにか仲直りをして、いつか一緒に自分たちの魂の花を摘みに来るのを、爽をはじめとする鳳凰の一族は、責任を持って見守らざるを得なくなったためである。

 ウタカタはその後何度も、深名を救うためあちこちの世界を飛び回ったため、橋としての役割を果たせるように成長してゆく。


 後になって、しみじみ爽は思うようになる。


 何もかも思い通りにならないのは、最強神も人間も、全く同じだという事を。