律のピアノの音を聞いた大地は、心臓が早鐘を打ち始めた。

 横にいるさくらの手を咄嗟に、きつく握りしめてしまう。

「…………大地?」

 ガタガタと体が震え出す大地は、さくらの声に反応が出来ない。

 音の中へ、魂が引き寄せられていくからだ。

 それは大地が心の奥深くに眠らせていた、禁断の記憶を次々と蘇らせる。

 最初に浮かんだのは、闇の神・伽蛇が作り出す暗闇。

 形容しがたい、あの女の笑顔。

 神々の力によって無理やり力を拘束され、隔離室の中に閉じ込められた瞬間。


『ここから出せ!』


 小さな自分が喚く声。


 泣き叫んでも、ジタバタ暴れても、決して出してはもらえなかった。

 力が奪われてゆく。

 隔離室の中は、一旦身を委ねてしまえば、過ごしやすく心地が良い。

 雨上がりの、草木の香り。

 狭くて奇妙な、桜の木のうろの中。

 柔らかな闇のヴェールに包まれながら、そっと守られているようにさえ思えて来る。

 いつまでもその中でただ滾々と、眠っていたくなってくる。


「…………あの子が気に入らないわ」


 隔離室の外から、伽蛇の声が忌々しそうに震えながら聞こえて来る。

 誰かに、大地の話をしているようである。


「平然とした顔をしているのよ。私がどんな事をしても」


 大地という小さな子供を必要以上に意識し、伽蛇はただ怖がっていたのである。


「私という存在を無視しようとしている。それが何よりも気に入らない」


 大地を意のままにし、狭い空間で孤独にさせ、ろくな食事も与えず、自ら死んでゆくように仕向けた。

 これは当然、大地の両親に対する嫌がらせの意味もある。

 子を痛めつければ痛めつけるほど、両親はのちに、死にたくなるくらい後悔するだろう。

 彼をこの世に誕生させなければ良かった、と思うようになるはず。

「あの子を痛めつけると胸の内がとたんに、スカッとしてね…………」

 手を変え品を変え、何度も大地を隔離室という名の地獄に入れる。

「ふふふ…………あはははは!」

 これは伽蛇にとってお気に入りの、楽しいゲームになった。

「苦しめれば苦しめるほど、自分の子供たちにはとても優しく出来るの!」

 隔離があった事実には、大地本人が外部に漏らさないよう、記憶や言葉を封じる呪いが幾重にもかけられてた。


 律の音楽には、伽蛇の笑い声と、隔離室という暗闇の中にいる間の記憶を呼び覚ます『鍵』が、含まれていた。


 かちり。


 心の闇を暴き、奥へ、奥へ…………


「思い出したぞ────はっきりと」


 時が経過しても、大地が自ら死んでゆくことは無かった。

 風変わりな桃色の髪を持つ、ただのかよわい少年のはずなのに。


「闇の神・伽蛇(カシャ)の顔…………」


 鋭い矢で射抜かれたような心地になる、決して逸らさない真っ直ぐな瞳。

 かつて恋焦がれたことのある、白龍・久遠にそっくりな眼差し。

 このまま生かしておいたなら、大地の記憶が蘇ってしまう危険がある。

 早く息の根を止めなければ大地本人と父と母が、どんな仕返しをしてくるか、わかったものではない。

 その思いから、大地に対する伽蛇の仕打ちは、どんどんエスカレートしていく。


「最低な女だった」


 伽蛇は、自らの手を穢すような真似はしない。

 隔離に気づいた両親は大地をこっそり連れ帰り、今度こそはと彼を守った。

 だがその後も伽蛇はしつこく、同じような隔離での嫌がらせを繰り返す。

 大地の両親より闇の神・伽蛇の方が、力が格段に上だったのである。

 そこで大地の両親は、龍宮に大地の身を預けることを決める。

 深名斗が支配していた世界では、邪悪な闇の力がまかり通っていたので、彼らが手出しできない特殊な場所に、大地の身を置く必要があった。

 律が奏でる音の調べに、大地の心の奥深くが厳かに共鳴を示している。

 大地の目からは自然と、涙が溢れ出て止まらなくなる。

 邪悪な伽蛇。

 律は何故、こうも鮮やかにあの女の正体を音楽で表現できるのだろう?


「大地…………大丈夫?」


 さくらが心配そうに、ギュッと大地の手を握り返してくれている。

 柔らかくて温かな手。

 ふと我に返り、大地は未来の妻にそっと微笑んだ。


「…………大丈夫だ」


 途端に、穏やかな心地に引き戻される。


 さざ波のように澄んだ別な音が、闇のもっと奥の方から聞こえてくる。


 その音は鮮烈に、果てしない闇を突き破った先から、ひっきりなしに溢れ出る。


『大地。必ずお前を助けに行くから』


 自分を気にかけてくれる、父の声。


『いつでも側にいるわ。生まれてきてくれて、ありがとう』


 優しい、母の声。

 その強さを感じたため、どんな事があっても大地は、取り乱さずに済んだ。


『どこにいても一人じゃない。自分を信じるんだ』


 何度見失っても、自身の危険を顧みず、大地を取り戻しに来てくれた両親。


『あなたは幸せになるのよ。大地』


 彼らの笑顔。

 鼓動。

 ぬくもり。


『心配しないで。あなたは大好きな人と、たくさん笑いながら生きていくの』


 何度も幸せを願ってくれた、父と母。


 彼らと過ごした、かけがえの無い時間。


 永遠に心の中で繰り返される、メッセージ。


 なぜかこれらの声が、律が奏でるピアノを通して伝わってくる。


 熱くなって息づき、大地の胸の内からあらゆるものを呼び覚ました。


 どんな闇に切り裂かれようと、どんな腐臭にまみれようと、どんなものに穢されようと、どんな衣で覆われようと────



 蘇ってみせる。



 何度でも。



「俺は生きる」


「…………?」


 不思議そうに、さくらは大地の顔を見た。


「俺、お前らと一緒に生きるよ。さくら」


 大地はさくらの手を、今度は優しく握ってみせた。


 さくらが大地に、微笑みを返す。


 律の演奏は、終盤に差し掛かっていた。


 大地だけでは無く、さくらも、結月も、凌太も、紺野も、祭りに参加している人のほぼ全員が、律の凄まじい演奏に聞き入っている。


 生きる喜びに満ち溢れたドラゴンが現れた時、こんな音が鳴るのかも知れない。


「楽しんでるね…………りっちゃん」


 さくらが言うと、結月が頷く。


「絵を描きたくなる」


「僕は物語が浮かんで来る」


 紺野がこう言うと、ウズウズした様子で凌太が返事をする。


「俺は動きたくなる!」


 さくらが笑顔になった。


「そうだね。りっちゃんの音聞いてたら、何だか力が湧いて来る」


 大地には律の音が、恐るべき力を持つ白龍へ変化するのを感じられた。


 その白いドラゴンは興味深そうに、岩時祭りに来た人々を見守っている。


 心を強く持ち、暴力に屈せず、何もかもを見据え、注意深く聞いて、必要な時に触れて、糧となるものを味わい、敏感に感じ取り、ひるまず闇に立ち向かえるのは、一体どこの誰なのか。


 最後まで生きる喜びを失わずに、果敢に抗いながら戦えるのは誰なのか。


「俺は必ず生きて、大事なもの全てを…………守ってみせる」


 さくらは大地がどうしてそう言い出したのかわからなかったが、頷いた。


「…………うん」



 律が最後の一音を響かせるまで、大地はさくらの手を離さなかった。