白色の茎を持つ花は、神々しく輝いている。

 大地はそれに近づいて摘み取ろうとしたが、花はするりと手をすり抜けて、触れることが叶わなかった。

 この広い地底からは、温かな湯気の感覚が地肌を通して伝ってくる。

 大きくて澄んだ青い湖が、花に触れられなかった大地を優しく慰めているように、ユナには感じられた。

 白色の茎を持つ花の蕾は、相変わらずちょこんと小さく根を下ろしている。

「…………」

 大地は白色の花の蕾をあきらめたのか、今度はその隣にある黒色の茎を持つ花の蕾に触れようとした。

 誰もが吸い寄せられるような強大な魅力を持ったその花が、禍々しさと狂気をたたえた、奇妙な感覚を呼び覚ましていくにも関わらず。

 だが黒色の花も、するりと大地の手をすり抜けた。

 二つの花は、実在していないのだろうか?

 ユナは大地の行動にふたたび驚き、慌てて彼の腕を引っ張った。

「大地、危ないわ。どうして触ろうとしたの?」

 彼は、恐れという気持ちを知らないのだろうか。

「花を食べようとしたんじゃないですか? お母様」

 飴細工の少年のうちの一人が、ふいにユナにそう告げた。

「…………そうなの? 大地」

 大地はこくりと頷いた。

 もし仮に、食べる事が出来たとしたら、大地はどうなってしまうのだろう。

「ふたつの花からは、得体の知れない力を感じるの。どういうものかわからないうちは、触ったり食べたりしてはいけないと思うわ。大地」

「…………」

「どうして、花を食べようと思ったりしたの?」

「わからない。異様に、喉が渇いて、腹が減ってる。……お前は、どうして俺を、ここに、連れて来た」

「…………あなたが牢獄に一人でいるのを、放っておきたくなかったからよ」

 今にも、大地が死んでしまいそうに見えたから。

 ユナは大地の虚ろな表情が、さっきよりも一層苦しそうに歪んでいくのを感じた。

「俺は…………覚えてる。螺旋城を、結婚式を、自分の黒天枢(クスドゥーベ)で…………」


 粉々にしたんだ。


 恐ろしい感情が、揺り起こされて。


「だから、それはあなたのせいじゃ…………」


「俺がやったんだ!」


 大地はどうしても、自分自身が許せなかった。


 自分の弱さが。


 たとえ深名斗のせいだとしても。


 これでは仲間を助けて守るどころか、自分の手で殺してしまう可能性だってある。


「…………どうすりゃいいんだよ」


 ユナは大地の頬に、一筋の涙が伝うのを見た。


「わからない。…………わからないけど私、あなたと一緒に考えるわ。私だって、あなたと同罪なんですもの」















 ガシャーン!!

 地下牢の扉が閉まる音がしたあと、鍵をかける音が鳴り響く。

 カチャカチャッ!

 深名孤は桃螺の最下層にある狭い牢獄に、伽蛇を閉じ込めてこう言った。

「おぬしの悪事は全て、ワシに筒抜けになったぞえ。もう証拠もあがっとる」

 深名孤の後ろには久遠が立っている。

 伽蛇は腕組みをし、牢の中でふんぞり返って笑いながらこう言った。

「ほほほ、物騒ですわね。何の話でしょう」

「とぼけても無駄じゃ。おぬしには久遠の息子である大地を、1歳から6歳までの間、いわれのない理由で何度も隔離室に閉じ込めた罪がある。他の神と結託までしての。大人しくその牢の中で頭を冷やすのじゃ」

「あらあら。私が神々の掟を忘れていたとでも仰るのでしょうか」

「そのようじゃな!」

 深名孤と久遠は瞳に怒りをたたえ、伽蛇を睨みつけた。

「まあ、深名孤様。どうか落ち着いて下さいませ。そもそも人間とは神々にとって出来損ないの創作物であり、古き良き時代にはただの、食べ物だったではありませんか! そんな生き物と白龍の間に生まれたちっぽけな子など、何の価値があるのです! 別に、あの時殺してあげても良かったのですよ!」

「黙れ! 大地は神でも人でもない。おぬしがあの子を恐れたのは何故じゃ? 高天原を支配していた深名斗の目をうまく胡麻化して、あの子を監禁した首謀者はおぬしじゃ。大地は鳳凰の梅が守る『龍宮』の先生となるべくして生まれた、尊い子じゃというのに。その事実が判明する直前に、あの子を隔離した罪は重いぞ」

「ああ、私にはまるで、わけがわかりませんわ。深名斗さまの側近だったというのに、そのような掟があったという事すら、知り得ませんでしたからね。この私をこのような場所に閉じ込めたことを、いつか後悔なさる日が来るでしょう」

「ワシにたてつこうなど、百万年早いぞ!」

 深名孤は伽蛇の言葉にキレて、鉄格子を引き千切りそうになった。

 力が元に戻っていれば、牢ごと破壊する寸前だっただろう。

「深名孤様、もう行きましょう。構うだけ時間の無駄です」

 深名孤は伽蛇を睨みつけ、久遠の言葉に頷いて牢を後にしようとした。

 だが、伽蛇が牢の中から、かん高い笑い声と共にこう叫んだ。

「ほほほほほ! そのお姿…………爽様の奥方そっくりですね! その美しさは男心を惑わすようですから、どうかお気をつけあそばせ」

「気にかけてもらわんで結構。とっくに一人、成敗したわい」

「────は」

「姫毬の血を遠い過去に勝手に吸った悪しき男が、この高天原におってのう。この姿でうろついたら、恥ずかしげも無くのこのこ声かけてきおったわい。今はおぬしがおるこの牢の、隣の牢に入っておる!」

「…………な」

「姫毬は高天原の神ではなく、常に人間世界におる。なのにおぬしが姫毬の容姿を覚えているのは、おかしな話では無いかのう」

「た、たまたま、知っていただけですわ」

「そうけ。恨みでも持っておるのならともかく。誰の指示で姫毬の血を吸ったかについては、もうすぐあの男がペロリと吐くと思うのでな、その時になったらまた、おぬしにも教えといちゃる。ワシはともかく、爽めが怒ったらどうなるか、まあ見ものじゃろう」

「…………簡単に吐くものですか」

「隔離室の恐怖を知っているおぬしでも、そう言い切れるか」

「!」

「おぬしが大地を閉じ込めたのは、過去におぬし自身が誰かにそうされたからでは無いか? …………龍宮の手のものを見くびるでないぞ、伽蛇」

「私のことを……調べたのですか!」

「当然じゃろ」

 『龍宮』とは白龍側の鳳凰が特別に管理する、神々や人間をはじめとする生き物たちが寄宿しながら学ぶ、多種族の集いに寛容な学校のことをいう。

 龍宮には龍宮独自のルールが存在し、たとえ高天原の神々であっても、その中に住む事を認められた者達に、手出しをしたり干渉することが一切許されない。

 伽蛇の悪だくみにより、大地は実に巧妙に隠された、桜の木で作られた隔離室に、長期にわたって監禁された。

 他人との交流を奪われた状態で、一歳から六歳までの五年間。

 隔離室は社会との隔離によって精神を壊され、退屈によって生じる苦痛が強制されるよう、意図的に作られている。

 何もすることが無い。

 何かに執着することが出来ない。

 何かと関わることが一切出来ない。

 まさに生き地獄だ。

「ワシの目が黒いうちは、おぬしの罪を許すことは永久に無いぞ、伽蛇」

 唯一の救いは、大地が生まれてから一歳になるまでの間だけは両親に愛されながら普通に暮らしており、その記憶が体や心の隅々まで残っていた事である。

 この経験が無ければ大地は到底、生き続けることが出来なかったであろう。

 自分という存在だけが全てで、他者との関わりが無いまま過ごす苦痛。

 それに加え、時には無理やり牢から出され、体中をくまなく調べられながら、暴言を浴びせかけられる。


 お前は必要無い子である。


 お前は無力な子である。


 お前の病気は治らない……等。


 隔離や暴言によって本来の自信を無くさせ、自己の本質を見失わせ、大地が自ら「死にたい」と思うように仕向けていく。

 力を削いでしまえる。

 それが目的だ。

 だが伽蛇のこのような行動よって、大地の力が消えて無くなることは無かった。

 小さな子供であったはずなのに、どんな境遇に陥っても大地はとことん自らと向き合い、誠実であり続けたのである。

 まるで時間という概念を超えた何者かによって、守られていたかのように。

 闇の神・伽蛇は、閉じ込める相手を完全に間違えたのだ。

 それだけではない。

 大地が持つ力に対する伽蛇の根深い畏怖が、さらに大きくならざるを得なかった。

 自分がこうまでして危害を加え、牢に閉じ込め続けても大地が屈しなかったのは、一体何故なのか。

 
 伽蛇はのちに、それを嫌というほど、思い知らされることになる。