「あなた達は、誰?」

 ひどく緊張し、声を震わせながら赤いピアノへと近づき、マユランは声を発した。

 外部から来た他者と話すのは初めての経験だが、自分がしっかりと対応しなくてはならないと、彼女は気を引き締めた。

 もうこの城には自分しかいないのだから、母親が喋らないのだから、ジンはただの召使なのだから。

 マユランは何度も、自分にそう言い聞かせた。

「突然お邪魔して、申し訳ございませんわ」

 立っていた美しい女が、歌うような声色でマユランの問いに答えた。

「ワタクシは時の神スズネ。この子はワタクシの娘、律でございますの」

 スズネは「おーほほほ」と笑いながら、扇子を広げて顔を扇いでいる。

 螺旋城(ゼルシェイ)の中は彼女にとって、蒸し暑い場所なのだろうか。寒すぎるくらいなのにと、マユランは内心首を傾げた。

 スズネの笑い声はこだましながら不気味な輪唱へと変化し、大広間に響き渡る。

「はじめまして。私はこの城の主であるユナの娘、マユランと申します」

 マユランはスズネと律に挨拶をしたが、玉座に座るユナは相変わらず表情を変えず、微動だにしない。

「あなたが残された王女様ですね。お会いしとうございました」

 スズネは微笑むと、「ほら、挨拶なさい」と律に向かって小声で言った。

 マユランを見て少しホッとしたような笑みを浮かべ、律は椅子から立ち上がった。

「はじめまして、マユラン。よろしくね」

 律はマユランに握手を求めた。

 マユランはおずおずと手を差し出し、彼女の冷たそうな手を握ろうとした。

 だが、マユランの手は律の手を『するり』と、すり抜けてしまった。

「────?!」

 何度握手を試みようとしても、同じように手は、すり抜けてしまう。

 律の笑顔がスッと消えた。

 彼女の表情から、『心』の灯が消えてしまったようである。

 ────もしかして今ここにいる律は、『実体』では無い?

 マユランは咄嗟に手を引っ込め、恥ずかしそうに笑いながらその場を取り繕った。

「あ、いえ、恥ずかしいので握手はいいです」

 この経験は過去に何度もあったので、マユランは別に驚いたりはしなかった。

 いなくなった兄や姉たちも、最後には実体が無くなっていたからである。

 魂だけがこの城に留まり、楽しそうにマユランと喋っていたのを思い出す。

 螺旋城は、そういう出来事が起こっても全く不思議ではない場所だった。

 両手を組み合わせ、気まずい雰囲気を変えようと、マユランは律に話しかけた。

「さっきの音、あなたが作り出していたの?」

 そう、この小さな律の手が、先ほどの壮麗な音楽を紡ぎ出していたのである。

「すごく美しくて、私、涙が出てしまったわ」

「ありがとう」

 律は口元だけ笑って見せ、こう言った。

「私は演奏する生き物なの」

 実体が無いはずなのに、一体どうやったら演奏が可能になるのだろう?

 魂だけで、音を奏でる事が出来るのだろうか? だとしたらますます、信じられない。

 律はまるで女王の様に背筋を伸ばし、堂々としていたから、座っている時も大人の風格を感じたが、実際は小柄な少女のようである。

 年は、18歳くらいに見える。

 少しウエーブがかったショートボブの髪に橙色のかんざしをつけ、薄茶色の瞳を輝かせ、青い浴衣を身にまとっている。

 マユランは律の魅力にぼうっとなってしまい、上から下まで穴が開くほど彼女を見つめた。

「私ってそんなに珍しい?」

 律が笑うと、マユランは慌てて首を横に振った。

「ううん、あの、ジロジロ見ちゃってごめんなさい。私、外から来た人が珍しかったものだから…………」

「ここには他に誰もいないの?」

「ええ、今は誰も」

 誰も────。

 たくさんの兄や姉たちが、弟が、この城に住んでいた時期があった。

 でも、みんないなくなってしまった。

 気づいたら、母と自分と、召使だけ。

 マユランはこの状況について律にぽつりぽつりと説明しながら、ふいに狂ったような笑いが、腹の底からこみ上げてきそうになった。

「どうして、こんな事になったのかな」

 自分は誰かに嵌められて、意図的に『取り残されてしまった』と感じてしまう。

 ジンは無言で、そんな彼女の様子をじっと見つめている。

「ねえ、この赤いもの、とても素敵ね! なんていう名前なの?」

「ピアノよ」

「どうやってこの広間に、こんな大きなものを運んだの?」

「スズネお母様が、力を使って出して下さったの。私のために」

「わぁ…………いいなぁ」

「弾いてみたい?」

「ええ!」

 マユランは目を輝かせた。

 誰かに何かを教えてもらうなんて、夢のような出来事である。

「じゃ、教えてあげるわ」

「本当?」

 スズネはそこで、二人の会話に口を挟んだ。

「マユラン様。ワタクシ、玉座におわすユナ様に、ご挨拶がしたいのですけれど」

「ああ、はい。どうぞご自由に」

 マユランはスズネと律を、先ほどいた小さな広間へと案内した。

 玉座に座るユナは、人形のごとく何も考えていないような表情を浮かべ、一点だけを見つめている。

 律が奏でたあの音色がユナの耳に届いたら、様子が少し変わるのでは無いかとマユランは一瞬思ったが、どうやら期待し過ぎだったようである。

「母はもう動けませんし、話しかけても、働きかけても、話そうとしません」

「あら。どうされたのでしょう」

「以前は明るい人でした。表情もちゃんとありましたし、きびきびと動いておりました。もしかすると、何かの病気にかかってしまったのかも知れません。……ですから母の態度については、どうかお気を悪くなさらぬようお願いします」

「さようでございましたか。かしこまりました。では、失礼して…………」

 スズネは頷き、玉座の前に進み出た。

「ユナ様。はじめまして。ワタクシはスズネと申します」

 スズネは意地悪そうに、にやりと笑う。

「この城を、いただきにあがりました」

 マユランはぎょっとし、スズネを睨みつけた。

 スズネはユナに両手を向け、その指先から赤い爪を10本放った。

 ──────ビュビュッッ!!!

 10本の赤い爪は全て、ユナの心臓部分に深々と突き刺さった。

 鮮血の赤色が、純白のユナのドレスをみるみるうちに染め上げてゆく。

 ────ぐらり。

 ユナは目を開けたまま、がくんと玉座から落ちて、地面へと叩きつけられた。

「お母様!!」

 マユランは仰天し、母の元へ駆け寄った。

「お母様、しっかりして! お母様!」

 マユランが揺さぶっても、ユナはぐったりとして動かない。

 そして、ユナの体は小さな小さな光の粒子に変わり、実体が無くなっていった。

「お母様! お母様!」

 マユランは現実を受け止められず、泣き叫んだ。

 母の、生き生きとした笑顔の残像が、マユランの脳裏に浮かびあがる。

 そう、ずっと母は、自分に笑いかけてくれていた。

 それを思い出すと涙が溢れて、止まらなくなる。

「もう一度あの笑顔を、見たかったのに────」

 マユランは激しい怒りに身を震わせた。

「何てことをするの!」

 律もスズネが取った行動に驚き、戦慄の表情をありありと浮かべている。

「ユナ様は既に、死んでいたようなものですわ。殺したところで何だというのです」

 スズネはさも当たり前、という仕草で大仰に玉座を指さした。

「これでは母としてあなたを守ることも、この城を守ることも叶いません。ワタクシがあの女に替わって、この城の主になって差しあげましょう」

「この城は母のもの……いえ、今は私のものよ! あなたには決して渡さないわ!」

 マユランは懐から五角形の飛刀を取り出し、スズネに向けて戦闘態勢を取った。


 召使のジンは、ただ黙ってこの様子を見守っていた。