道の神クナドは、紺野和真と向き合っていた。

 心は虹の橋のたもとで覚醒したが、橋の姿をした状態のウタカタは、相変わらずスヤスヤと寝息を立てている。

 クナドも和真も、本来の姿に戻っている。

 頭に『真実の輪(ベリタスワール)』を乗せているのはクナドの方だったが、黒樺の杖は何故か和真の方が持っていた。

 和真の魂に触れた事によって、クナドにとって一番最悪な『血の記憶』の真実と向き合う羽目に陥っている。

「君に関ったのは大失敗だった」

 涙を流しながらクナドは、和真に向けて悪態をついた。

 その涙は頬を伝った後、赤黒い色の砂になってサラサラと落ちていく。

 地面に溜まったその砂は、光沢のある真珠へと姿を変えた。

「女など、ただの魔性だ。タイミング良く触って、ねじ伏せてしまえばいいんだよ」

 クナドがそう言うと、和真は冷ややかに笑いながら首を横に振った。

「女性は男性の反対側に当たる存在。こちらに都合のいい生贄では無い」

 クナドはラーフに大切なものを全て奪われ、殺され、焼き尽くされた時の事を思い出していた。

「逆だよ、生贄は僕だった。僕はある女を愛し、裏切られたんだ」

 クナドは和真を睨みつけ、忌々し気に言葉を放った。

「それまで救った心も魂も大切なものも、全て、全て、ラーフという女に殺された」

 和真は首を横に振った。

「それは、その女(ラーフ)のせいであって、女性全てに当てはまる事ではない」

「君に何がわかる?!」

 吐き捨てるように、クナドは言った。

「あの痛みをもう一度味わったら今度こそ、僕の心は粉々になってしまう」

 愛が狂気に変わった途端、クナドは自身に潜む刃を、女性という弱者に向けた。

 道の神の尊厳など、二度と大切にしようとは思わない。

 醜くて理解しがたい女心に、振り回されるのはもうごめんだ。

「結局女は、男の顔や体や力の強さにしか興味が無い。そう思わない?」

 女という生き物は所詮、欲望を叶えるために、その美しさを振りかざす罪な存在。

 クナドがそう言うと、和真は首を横に振った。

「思わない」

 和真はさくらを思い出した。

「様々な女性がいる。だから一人一人の心を、ちゃんと見る必要がある」

 嘲るようにクナドは笑った。

「ただ体だけ奪って、心など見ない方がよほど楽で、簡単じゃないか」

 女はペット。

 女は生贄。

 血を飲んだら、あとは知るものか。

 どんな風に捨てたって構わないし、勝手に自殺でも何でもすればいい。

 雑に扱えば扱うほど、傷ついた心は救われたように晴れ晴れとして、爽快になっていく。

 女の心とじっくり向き合って、古傷を抉られて、血が吹き出るのは耐えられない。

 快楽だけを味わえば、自分が傷つかずに済む。

「あなたに血を捧げた上、心を弄ばれた女性達はどうなったと思う?」

 紺野和真は黒樺の杖を、真っ直ぐクナドへ向けた。

 クナドの目の前に、うねうねとのたうち回りながら、巨大な九頭龍が現れた。

「う…………わあっっ!!!」

 クナドは仰天した。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 白と黒の体を持った九頭龍は、回転しながら勢い良く近づいて来る。

 和真が体験した、九頭龍に血を奪われた記憶がクナドの脳裏に、まざまざと呼び覚まされていく。


「う、わぁぁぁぁあッ!!!」

 
 あっという間にクナドは、九頭龍に喉を噛み切られた。

 頭も、胴体も、腕も、足も。

 咀嚼音と、血が喉を通る音が、あたりに鳴り響く。

 ねじ伏せられ、狂気を押しつけられ、クナドは徹底的にいたぶられた。


「や、やめ…………やめろっ!!」


 九つの蛇頭はなおもクナドの血を、むさぼるように飲み続ける。


 ゴク、ゴク、ゴク、ゴク…………


 ああ、ああ、ああ、クナド様。


 お待ち申し上げておりました。


 やっと、あなたに、お会い出来ましたね────


「これは血を吸われた時の、僕の記憶だよ」


 和真はクナドを静かに見つめた。

 にこりとも微笑まずに。

「自分がした事は全て、自分に返って来るんだ。クナド」

 女性に向けた、全ての罪が。

「あっ! 痛っ! ……やめて、和真っ!!」

「やめない。この記憶ごとそのまま、あなたに返すよ」

 クナドは悲鳴をあげ続けた。

 舌が首筋を這い回り、キスをされ、血を吸われ、愛撫され、くすぐり、弄ばれる。

 血を吸われながらクナドは、何度も何度も嘔吐した。

 体が引き千切られる。

 激痛が幾度も襲う。

 完全に犯されている。

 飲まれ、蔑まれている。

『どうですか、クナド様? とても気持ちが良いでしょう?』

 九頭龍の言葉。

 逆である。

 気持ちが悪くてたまらない。

 屈辱感と羞恥心。

 生き地獄だ。

 意に反して血を吸われた事で、ようやく理解に及ぶ。

 女の血を吸うという、その重さが。

 吐き気。

 痛み。

 苦しさ。

 やるせなさ。

 惨たらしさ。

 女性側の気持ちを想像すればするほど、ぞっとする。

 一生を捧げることに決めた相手にだって、易々として欲しくはない行為。

「幸せに導いてあげる」と言いながら、女達を犯したことを思い出す。

 不幸のどん底につき落とすため。

 シャーシャーと唸り声を上げ、九頭龍はなおもクナドの血を吸い続ける。

『美味しい、美味しいですわ、クナド様の血は…………』

 クナドの涙がいくつも、いくつも、地面に落ちる。

 艶やかで光沢のある赤黒い真珠になった涙は、流れ落ちれば落ちるほど、透き通るような白さへと変わっていく。

 それは道の神本来の、純粋な魂が結晶と化したものだった。

 白い真珠になった球はやがて一つ一つが大きくなり、慈愛の光を灯し始めた。

 この輝きは一体────


「いよいよ僕も、終わりか…………」


 クナドの頭上で『真実の輪(ベリタスワール)』が、輝きを放つ。


 やがて後悔が、さざ波のように沸き起こる。

「ごめんね、みんな……」

 力が無くなる。

 九頭龍はクナドの謝罪を聞いた瞬間、嚙みついていた口を彼から離した。

 穢れた血なのか、清らかな血なのか、よくわからないその液体は行き場を失い、地面へと滴り落ちてゆく。

「本当は知っていたよ。僕がどれほど君達を、不幸に陥れていたか」

 せめてクナドの神としての行いが、信頼のおけるものだったなら。

 女達は彼に血を捧げたことに、少しは誇りが持てたろうに。

 自分と子供を捨てられた後も、友になって互いを見守ることが出来たなら。

 どんなにか嬉しかった事だろう。

 相手を少しも心配出来ず、気に留めておけないのでは、自分を含めた誰のことも、幸せにすることは叶わない。

 女は身を捧げるだけの、生き物だったろうか?

 痛さと辛さに耐えるだけの、男に頼るだけの、情けない生き物だったろうか?

「違う」

 体を奪われても屈辱に耐えなければならない、哀れな生き物だったろうか?

「違う!」

 死にたいようなやるせなさをこらえ、それでも感謝の微笑みを浮かべ────

 拷問に等しい暴力的な血の交換を、受け入れなければならなかったのだろうか?

「違う! 違う! 違うんだ!」

 クナドは叫んだ。

「本当は、優しくしたかった」

 全てを覗き見しながら、正直、何を見ても他人事だった。

 女性の痛みや苦しみを知り、寄り添って一緒に生きる事など面倒である。

 知ったかぶりも、感じないようにするのも、簡単で楽しかった。

 ────最低過ぎて笑える。

 クナドは何故、自分が女を闇へと導いたのかを、自分が血を吸われた事によって初めて理解した。

 交換した血が濁っていれば、不味くて臭くて汚ければ、女の心は辱めを受ける。

 クナドの血に吐き気を催しながら女達は、それでも彼の愛撫を待ち望んだ。

 体じゃなくて、心を愛して欲しかったろうに。

 魂を愛して欲しかったろうに。

 クナドの謝罪を聞いて目を覚ましたかのように、九頭龍は話し出した。

『知っておりました』

「…………え?」

『あなたは最初に、仰いました。「僕はたくさんの女性を愛したいんだ。それでもいい?」と』

「…………!」

 狂いながら、言ったかも知れない。

『口約束に乗ったのはこちらの方。クナド様は悪くありません』

 血の交換をしたいだけだと知りながら、最初から裏切りを承知の上で、狂ったあなたに血を捧げました。

 勝手に拗ねて、囚われ続けていたのはこちらの方。

 だからクナド様、もう自分を責めないで。

「…………いや」

 クナドは首を横に振った。

 殺してくれた方がいっそ楽だ。

 どう考えたって、悪いのは────

 彼女らはクナドがいつか元に戻って、振り向いてくれるのを辛抱強く信じて、待っていた。

 あなたを憎み切れません─────

 哀れな九頭龍が、白色に輝く。

 これは、揺光(アルカイド)の慈愛。

 反転を繰り返しながら輝く、純白の感情。


 魅力と能力と権威を武器に、快楽に溺れ、クナドは自分を傷つけていた。


『そんな、哀れなあなたを愛し続けていたかった』


 九頭龍は最後に、美しい女達の姿へと変わった。


『クナド様。あなたを好きになれて良かった────』


 クナドを許したからなのか。


 彼の謝罪を受け入れたからなのか。


 女達も白い砂になって、最後には温かい空気へと変わり、消滅した。
 

「僕が悪かった。殺されて当然なんだ。今度こそ…………」


 誰かを、何かを、幸せにしたい。


 真実の輪が輝いた。


 クナドの流した涙は、数えきれない純白の真珠へと変わる。


 やがて真珠はサラサラと白い砂になって、風化してゆく。


 その砂は────


 血の回廊付近に立つ桃色のドラゴンの体を優しく、包み込んだ。