────これは、いつもの夢だ。

 大地は、6歳くらいの少年の姿に戻っている。

 何度見れば、気が済むのだろう。

 真っ暗闇の中から、声がする。

「………大地………?」

 鈴の様に響き渡る、一番愛しい女性の声。

 幸せの予感が始まり、大地は静かに目を覚ます。

 彼女に会えるのだという喜びに、全身が震え始める。

 それだけで心が、まばゆい光に包まれていく。

「…………大地」

 心配そうに何度も、自分の名を呼ぶ、綺麗な声。

 ひんやりとして滑らかな彼女の手が、そっと優しく自分の手を、ふんわりと握ってくれている。

「…………ん」

 気づくと自分は、木の香りがする場所に横たわっていた。

 一人の女性がすぐ近くで正座をし、心配そうにこちらを見つめている。

「………誰………?」

 大地が聞くと、彼女は名乗った。

「…………さくら」

 目の前にいる女性は、大人になったばかりのさくらだ。

 腰まである、つややかで真っ直ぐな長い黒髪を揺らしている。

 会話が成立するとホッとしたような笑顔を浮かべ、彼女は表情を緩めた。

「さくら……これは、夢………?」

 子ども一人くらいしか入れないはずの、桜の木のうろ(空洞)の中。

 その中ではほとんど、身動きを取る事が出来なかったはず。

 なのに。大人のさくらもその場所に、いつの間にか入り込んでいる。

 徐々に目が慣れると壁面が見え、小さな穴からは、光が漏れているのがわかる。

 覗き込むと、外の世界が少しだけ見える。

 思い出す。

 この穴は『龍の目』だ。

 自分が本当に見たいものを、見せてくれる『目』。

 人間世界と繋がっている。

 闇からぼうっと浮かび上がったのは、巨大な白い大鳥居。

 ここは岩時神社だ。

 横たわっていた体を起こし、大地は固い木の上に膝をついて、ぐるりとあたりを見回した。

「さくら。どうしてここに………?」

 彼女は、とても返答に困ったような表情を見せた。

「……わからないの。気づいたら、ここにいたから」

 彼女はあたりを見回し、大地に尋ね返した。

「ここはどこ?」

「隔離室」

 ………彼女は首を傾げた。

 意味が分からない、といった表情を見せている。

「……『隔離室』?」

「俺は本物の『神』じゃなくて、半分『人間』だから」

「……え?」

「体が弱くて、病気にかかりやすいから」

 さくらが息を飲む音が聞こえた。

 大地の心は今、正体を失い始めている。

 頭も体も、心も、フワフワと宙を彷徨っている。

 だから、いつも引っかかっていた光景が、真っ先に浮かび上がるのだ。

 この記憶の中の会話は多分、現実で起こった出来事なのだろう。

 印象が強いから、何度も反芻してしまうのだ。

 だが、どうしてさくらは大人で、自分は子供なのだろう?

「咳をしたり、くしゃみをしたり、熱を出すと、神様達にたくさん迷惑がかかる」

 拙い説明で初めて打ち明ける、自分の境遇。

 受け入れるのが当たり前とされていた、狂った現実。

「…………」

 聞かれたからといって、何を真面目に打ち明けていたんだろうな、子供の頃の自分は。

『さくらが、困ってるじゃねぇか』

 はじめて会った頃から、彼女は時折この表情を見せた。

 心配そうに、切なそうにこちらを見つめる、どこまでも澄んだ瞳。

 本当は一瞬だって、そんな顔をさせたくなかったのに。

 ずっと笑っていて欲しい。

 一番元気をもらえるから。

「辛いとか、苦しいとか、寂しいとか、嫌だとか言うたびに、神達は俺のことを、大声で馬鹿にする」

 …………こんな寂しい場所、もう二度と思い出すのはごめんだ。

 早く人間になって、さくらと一緒に、幸せに暮らす。

 そう一番に、願ってしまう。

「俺が弱いから。俺が生きているだけで、みんな嫌な顔をする」

 なのに。

「だから俺は、ここに入れられてる」

 この場所が自分の、原点なのだ。

「誰とも、一緒にいなくて済むように。誰とも、話さなくて済むように」

 狭くて、家具さえなくて、むせ返る様な木の香りしかしない。

 食事すらろくに与えられない、身動きが出来ない、この桜の木の空洞が。

「……ここには、どのくらい一人でいるの……?」

『なんて目で俺を見るんだよ』

 真っ直ぐなさくらの視線を受け止められず、自分から目を逸らす。

『やめろよ。その目』

 見つめ合いたくない。

 残虐に痛めつけられ、毎日吐きたいくらい苦しんで、彷徨っていた虚ろなこの目を、これ以上見られたくない。

「1回咳をしたら、罰として10日」

 現実を受け止められず、死を何度も望んだ姿を見て欲しくない。

「俺が何か文句や泣き言を言ったら、罰として20日」

 理不尽な虐待や拷問に、自分自身の弱さに、負けてしまう瞬間を見られたくない。

「大地のお父さんとお母さんは……?」

 体の拷問は癒えるのが早いが、心の辱めはそうはいかない。

「一度も会ったことない。神さま達よりも、立場が弱いからだって」

 傷は永遠に、自分の奥深くに刻まれてしまう。

「俺なんか、……死んじゃった方がいいんじゃないか……?」

 小さな大地を、さくらは凛とした様子で睨みつけた。

「…………何言ってるの」

 両手を胸のあたりで組み合わせ、彼女は祈るように言葉を紡いだ。

「…………あなたは死んだりしないよ。大地」

 魔法を詠唱するように。

 小さな大地は目を丸くして、さくらを見つめた。

「…………?」

「だってあなたは、これからたくさんの人を、笑顔にするんだもの」

 小さな大地は、首を横に振った。

「…………うそだ」

 そんなの知ったかぶりだ。
 知りもしないくせに。

 全否定したくなる。

 預言者みたいに自信満々な、目の前のさくらが鼻につく。

「本当よ。お嫁さんももらうのよ!」

「俺が…………?」

 誰が誰のお嫁さんなんだよ。

 何だか混乱してくる。

『そもそも俺のコンニャクシャは、お前じゃねぇか』

「うん。もしかしたら、あなたの子供にもいつか、会えるかも知れない!」

 嘘だろ?

 驚きが隠せない。

「あなたは桜の花びらをね、こう…………パアアッ…………!ってね?」

「…………う、うん…………」

 さくら?

 何を始めるんだ。

 彼女はジェスチャーで、不可解な踊りにも似たポーズを作り始めた。

「こう…………手を空の方に伸ばして…………」

 おいおい。

 急にどうした。

「…………?」

 だが今は、笑うべきじゃない。

「パアッ!!!! ……って、開くと……」

 急にさくらが、両手をパアッ!! と大きく開いた。

 パアッ!! ってお前。

 アホみたい。

「桜の花が、ワーーーーーッ!!!」

 両腕を高く上げる、さくら。

 てか一体、何なんだ。

「…………って咲くの!!!」


 ────ダメだ!


「わ、ははは!!……お前、変態っぽい!!!」

 もう笑いが止められない。

 涙が一筋、自分の頬からこぼれ落ちた。


 ────おかしなヤツ!


 大地は夢中で、愛しいさくらを抱きしめていた。


 気づくと、大人の体に戻っている。


 笑わせようと必死で。


 伝えようと必死で。


『何なんだよ、お前』


 抱きしめられたまま恥ずかしそうに頬を染め、さくらは自分だけを見つめている。


「可愛すぎるだろ」


 互いの心臓の音だけが、聞こえてくる。


 まるで呼び合うかのように。


 言葉などいらない。


 気持ちを濁す必要は無い。


 痛みも、苦しみも、悲しみも。


 嘆きも。


 喜びも。

 
 全てを分け合い、一生守る事を厳かに誓う。


 人生を共に過ごす、相棒(パートナー)になる。


 死が自分たちを別つまで、真正面から向き合ってみせる。


 時が経てば、愛情の形は変わるかも知れない。

 
 でも、色あせたりはしない。


 目の前にあるさくらの首筋に、触れられるのは自分だけ。


 だから、痛みが伴っても、奪う。


 さくらを犯す。


 さくらの血を、飲む。


 何度も。


 何度も。

 
 牙を立てる。



 幸せを生み出す為に。