医師・天津麻羅《あまつまら》は一人の少年を連れて、岩時温泉街に来ていた。

「いらっしゃいませ! 岩時温泉街にようこそ! あ、いらっしゃいませー!」

 呼び込みの声が響き渡る。

 桃色ののれんと茶色い岩ばかり広がっているが、明るく清潔で、安全そうな場所である。

 受付で渡された地図を確認し、この温泉街が一本道であることにホッとする。

 天津麻羅は極度の方向音痴なのだ。

 いつも考え事をしながら歩くため、気づくと見当違いの場所にいるのが日常である。

 万能と謳われた彼の、これほどの致命的な弱点を知る者は数少ない。

 今の温泉街は混雑した時間帯のようで、温泉街の案内人はみな忙しそうである。

 連れの精神状態が不安定なので、割引の説明で寄って来る案内人がいない方が、都合がいい。

「大丈夫ですか? ウィアン」

「……アイ」

 ウィアンは高所から落ちたショックで、地面に倒れたまま気を失っていた。

 偶然通りかかった旅人が麻羅の出張診療所に運んでいなければ、今頃彼は死んでいた。

 最強神・深名斗《ミナト》の息子という、血統によるギフトなのか?

  ウィアンが今、本当は何を考えているのかが、麻羅には皆目わからない。

 医師として麻羅が持つ、人の思考を読む術式『把握心《ハコロ》』が効かないのである。
 
 これから起こる出来事が予測出来ないため、麻羅は恐怖を感じている。

 この短期間の治療で、ウィアンの体がよく回復したものだと、感心した。

 心は、どこかへ飛ばされたままのようだが。

 何を話しかけても、どんな療法を試みても、元気で明るい彼に戻らない。

 耳は聞こえているが、他者の言葉を、心が受けつけようとしていない。

 そこで麻羅が思い出したのが、クスコの言葉。

『ワシャ死ぬのじゃ。もうじき死ぬのじゃ。きっと死ぬのじゃ。かなりの確率で死ぬのじゃ。死んじゃうかーもーしーれーぬー。のじゃ。効能の高い温泉が無いと、もうダメじゃ。とびっきりのイケメンがいないと、もうダメじゃー…………』

 温泉か。

 なるほど。

 イケメンはともかく……温泉は、ウィアンに効くかも知れない。

 ウィアンは岩の神・フツヌシと、ずっと行動を共にしていたのだから、温泉好きかも知れない。

 たった1人の患者に付き添って行動を共にするのは通常ではあり得ないが、最強神を元に戻すきっかけを作れるのならば、話は別だ。

 フツヌシには魂の花を持ってくるよう頼んだが、簡単に事が運ばないのは百も承知である。

 麻羅は、ほぼ全ての事象を把握している。

 幼少期のフツヌシが、この人間世界で『岩時温泉街』を作り上げたことも。

 深名孤《ミナコ》(クスコ)の息子であることも。

 あの悪趣味な黒奇岩城《くろきがんじょう》が、フツヌシではなく石凝姥命《いしこりどめ》が設計したものであるという事も。

 考えながら歩いたせいで、麻羅とウィアンは地図にはない細長い枝道に、入っていたようだ。

 標識がわりの古い岩には、くっきりとした文字が彫られている。

 『子供用本格派温泉』と。

 先ほどまでの、賑わった街道ではない。

 道に迷うのはいつものことなので、麻羅は気にせずウィアンに話しかける。

「過去にあった温泉のようですね」

「……アイ」

 ウィアンの返事を聞き、天津麻羅はホッとした。

 どうやら、言葉は話せるようだ。


「あなたはこの辺り住んでいた。覚えていますか? ウィアン」

「……アイ」

「地面がすっかり、枯れていますね。どうしてなのか、何かご存じですか?」

「アイ? 枯れてません」

「え?」

「フツヌシ様の力が、眠っているだけです」

「そうですか……」

 ウィアンの瞳は、赤黒く輝いた。

「ウィアン?」
 
 彼は自身の矢筒から一本の矢を取り出し、大切そうに見つめている。

 天津麻羅は驚愕した。

 ウィアンの手の中にあるのは、力の強い神々が宿り、憩い、力を蓄えられる、岩時の破魔矢。

 遠い過去に自分が作った、最強の矢だ!

 麻羅の心は急速にざわついた。

「この矢はどこから?!」

「麻羅先生の病院から、もらってきました。ギャラリーに本物が、たくさんあったから」

 よく見ると矢筒には、20本以上の岩時の破魔矢が入っている。

「なぜ勝手に持ち出したのです!」

 ウィアンは叫ぶ。

「決まっています! フツヌシ様に腹が立ったからです! いつまでも思い出さないから!」

「何を?」

「僕との約束です!」

 ウィアンは矢を構えた。

「僕は信じたことを、後悔させられた! もう限界です! あの方を殺して、僕も死ぬ!」

 震えながら弓矢を構え、ウィアンは乾いた地面を睨みつけている。

「……?」

 麻羅はゾッとした。


 ウィアンが矢を放てば、どうなるだろう?


「ウィアン!」



 フツヌシは今、この場にはいない。



「フツヌシ様の……」



 ウィアンは乾いた地面に向け矢を放った。



「大バカ野郎ーーーーーー!!!!!!」



 止める隙は無い。



 音が鳴り響く。


 ヒュッ!

 ヒュッ!

 ヒュッ!


 ガッ!

 ガッ!

 ガッ!


 光り輝く矢は螺旋を描きながら、地の底まで掘り進めるように、深々と地面に突き刺さった。


 ドオーーーーーン!!!


 その途端、地底から湯が噴き出てきた。





『なあ』




 誰から声をかけられたのか、小さなウィアンは気づかなかった。

 顔を上げると、そこには少年時代の岩の神・フツヌシが立っている。

 涙は少し止まったが、言葉が全く出てこない。

 ヒック……

 ヒック……

『……なあ、もう、泣きやめよ』

 そんなこと言われても、悲しみが止まらない。

『お前いつも、ケラケラ笑ってたじゃねえか』

「母さまがどこかへ、行っちゃったんです!」

 自分を宿屋に、置き去りにして。

『戻って来ないのか?』

「うん……えっぐ」

 フツヌシは、ウィアンの頭に手を置いた。

『俺様の母様だって、どっか行ったきりだぜ? そうだ! お前に面白い場所を作ってやるよ! 楽しくて、笑わずにはいられないぞ?!』

「?!」

『つまらなかったら、自分で楽しくするんだ!』


 フツヌシは、大声で叫んだ。


『それが俺様の、流儀だーーーーーーー!!!』


 ドォーーーーーン!!!


 岩が弾ける!


 ドォーーーーーン!!!


 飛び散る!


 ドォーーーーーン!!!


 積み上げられる!




 子供の遊び場のような場所になっていく。


 岩でできた滑り台。


 ジャンプ台。


 コースター。


 トンネル。


 小型の城。


 たくさんの遊具。


 得体の知れないもので、溢れかえる。


 どんどん、作り上げられてゆく。


 しばらくするとそこには、一大レジャーランドが出来上がっていた。

『子供用・本格派温泉』の誕生である。


 ドオーーーーーーン!!!


 岩の隙間から、またもや湯が噴き出てきた。

 太陽の光を浴びてキラキラ輝き、大きな虹が出来上がる。

 ウィアンは震えるほど、感動した。

『ほら、遊ぼうぜ!』

 夢中になりながら、時間を忘れて、ウィアンは日暮れまで、フツヌシと楽しく遊んだ。

 こんなに楽しい時間は、久しぶりだ!

 フツヌシ様ってすごい!

 もっと、もっと、ここで遊んでいたい!

『ほら、笑えるじゃねえか』

「……あ」

 ウィアンは、フツヌシに言われてようやく、自分が笑っていたことに気がついた。

『楽しめよ! 嫌なことも苦しいことも、笑い飛ばしていれば、きっと何とかなる! そのうちにお前の母様は、必ず戻って来る!』

「本当?」

『そうだ。母様は俺様が笑っているのが、一番好きと言っていた!』

「……ふうん?」

『俺様も、母様みたいになってやる! どんなに自分がつらくても、誰かを笑わせるために、この力を使えるように、なってやるんだ!』

「……」

『信じろ! お前の本当の母様は、礼環《レーデ》様だ。ウルスィは、お前を産んだ女だけど、本物の礼環様じゃない。必ず会える! 俺様が会わせてやる! だから、笑っていろよ」

 ウィアンは頷き、微笑んだ。

「うん」

 フツヌシの言葉を信じて、いつか母親に会える日を、笑顔を絶やさず待っていようと決めた。









「なのに……あの変わりようは何なんですか!」

 ほとんど跡形もなく、過去の岩の残骸だけが残る子供用本格派温泉を見つめながら、ウィアンは吐き捨てるように声を出した。

「嘘なら嘘だと、言えば良かったんだ! フツヌシ様の、大馬鹿野郎ーーーーーーーーー!」


 ドォーーーーーーン!!!!!


 ウィアンが叫ぶと、さらなる湯が吹き上がる。










「何だ、この音は!」


 深名斗は、音がした方角に目を向けた。

「この香り、先ほどと同じでは無いか? 本格派温泉が、今度こそ復活したのか?」

「わかりません」

 久遠はそれしか答えられない。

 本当に、何もわからないのだから。

 空気まで熱い。

 今の地震は何なんだ?

 人々を、どうにか守らねば。

 久遠はこの地を作ったわけでは無いので、勝手がわからない。

「天枢《ドゥーべ》!」

 おかしい。

 術が効かない?!

 状況がまるで、わからない!

 久遠は何事も、ハッキリと判らないのが大嫌いだった。

 自身の考えで動く事が出来なくなるからだ。

『乗り気ではなかったが、仕方がない!』

 久遠は大人しく、命令に従う事にした。


 右手の人差し指をかざし、術を発する。


「天権《メグレズ》! フツヌシ」


 白い蒸気のような靄が広がる。


 フツヌシを、この場に呼ぶ。


 どんな結末になるか全く予想できないが……


 ゴゴゴゴゴゴゴ……!


 音が響き、地面が大きく割れた。


 岩時温泉街がグラグラと強く揺れ、大地や、モモや、カイが尻もちをついた。

 モモが叫ぶ。

「わあああああ、どうしよう、大変だ!」

 大地は叫ぶ。

「何かに捕まれ! 早く!」

 揺れは強くなり、弱くなる。

 岩と岩がぶつかり合い、崩壊してゆく。

 しばらくの後。

 温泉街の本格派温泉跡地に、巨大岩が姿を現した。

「岩?!」

「!」

 フツヌシの形をしている岩は、仁王立ちしながら無言を貫いていた。