フツヌシは、高天原に憧れていた。

 一生に一度は行きたかったし、自分の名を全世界に轟かせたいと思っていた。

 毎日が恐ろしく、つまらなかったから。

 なのに、この重苦しい気持ちは何だ?

 モモとカイに会いたい。

 仲よく遊びながら、温泉をドカーンと作りたい。

 早く岩時の地に戻りたい。

 ホームシックが爆発し、後悔が押し寄せる。

 どこかへ連れて行ってもらいたい、なんて、あんなに願ったたからだ!

 小さなフツヌシはウィアンと一緒に、闇の神・侵偃《シンエン》に、黒一色でゴツゴツした外観の、細長い乗り物に乗せられ、荷物のように運ばれている。

 シートもフカフカじゃなく、ゴツゴツ。

 窓は一応あるにはあるが、外は黒一色であり、今どこにいるかが把握できない。

 居心地は最悪。

 空腹なのに食事は出ない。

 侵偃だけは美味しそうなものをたらふく食べており、ゴクゴクと酒のようなものを飲んでいるというのに!

 車内アナウンスがおかしい。

『我々は命を奪われません! 全ては最強神・深名《ミナ》様のおかげです!』

 なにこの出だし。

『お慈悲に感謝を! この【進化系・洗脳列車】に乗せていただけたことに、心から感謝を! 感謝しかないではありませんか! 次は爪羅《ソウラ》! 爪羅《ソウラ》の次が終点・高天原《たかまがはら》! 終点まではたっぷりと洗脳教育があります。我々は罪深い! 殺されて当然の生き物です! 有難~く洗脳教育を受けようではありませんか!』

 うるさいなあ、もう。

 受けたくないってば。

 小さなフツヌシは、心の中で毒づいた。

 すると。

 隣に座る闇の神・侵偃《シンエン》が、フツヌシの頭に触れた。

 ギュワーン……

 触れられた部分がヒンヤリし、脳の中が凍ったようになったかと思うと……

 フツヌシは、何かを《《忘れた》》。

 とても大切な、かけがえのないものを。

「あれ」

 さっきまで、どこかに、帰りたかったような気がする。

 なのに……思い出せない。

 闇の神・侵偃は、同じ要領でウィアンの頭にも触れた。

 ギュワーン……

「いたい!」

 ウィアンは、フツヌシと異なる反応を見せた。

 侵偃は戸惑う。

「……?」

 再び、アナウンスが流れ始める。

『何も考えてはなりません! 全て深名様のご指示に従いましょう!』

 気持ち悪いなあ、この乗り物。

 早くどこかへ逃げたい。

 どこへ行きたいんだっけ。

 もう、わからない。

『服装は黒と灰色。これしかありません!』

 ボン!

 いきなり座席の下から、フツヌシとウィアンにピッタリのサイズに仕立てられた、黒と灰色の装束が現れた。

 列車が到着した場所は、灰色の地面、黒い建物ばかりが連なる、見るからに簡素で味気ない街だった。

「フツヌシさま、「せんのう」って?」

 ウィアンが尋ねてくるが、フツヌシも首を傾げた。

「さあ……」
 
 フツヌシ達が連れてこられたのは、黒龍側の神しか住んでいない爪羅《ソウラ》。

 爪羅《ソウラ》は、外れにあるが高天原の中にある。

 にこやかに接してくれる大人は皆無だが、フツヌシが人間の世界から来たのは、異例の出来事だったらしい。

 最初は黒ずくめの大人たちから、質問攻めに遭った。

「お前、どこから来た」

 いきなり聞かれ、フツヌシはたじろぐ。

「……わかりません」

「どんな力が使える?」

「わかりません」

 嘘ではない。

「師匠の名は」

「……ウミダマ様」

 何故だろう。

 海玉の悲しそうな表情だけが、脳裏に焼きついている。

 それ以外、フツヌシは何も思い出せない。

 侵偃は再度フツヌシの頭に触れ、彼の脳内から海玉との思い出も奪い取った。


 今度はウィアンが答える。

「僕、弓矢が使えるかも」

 これから、どうなってしまうのだろう?

 わかるのは、もう元の世界には戻れなくなったということだけだ。

「まさか、力を使えなくしたのか? それではただの役立たずだろう! 連れて来た意味がないではないか!」

 侵偃《シンエン》は怒鳴りつけてくる神に逆ギレした。

「仕方がなかったのだ! またあの『あるかいど』とやらを使われたら、今度こそ私の命は無いだろう」

 死んでいても、おかしくなかった。

「だから記憶も力も消したのか」

「……そうだ」

「深名様が怒るのでは無いか?」

「あの方がフツヌシの力に興味を持ったのは、この子がクスコの息子だからだ。何らかの形で、嫌がらせをしたくなったのだろう」
 
 何もやらせない、というわけにはいかず、フツヌシは建築の勉強をすることになった。
 





「全ては深名さまのため! 私は悲しき虫けらです! 咳をしません! くしゃみもしません! 病気にかかりません! 死ぬまで私は虫けらです!!」

 この言葉は、毎朝十回言わなければならない。

「這いつくばって、土下座します! 今日も私は、最低です!!」

 この言葉は、毎朝二十回言わなければならない。

 それが黒龍側最強神に近づくための、第一歩なのだから。

 時々、頭の中に何かが、フラッシュバックする。

 湯気の中。
 
 笑いあう声。

 自分の声と、楽しそうな誰かの声。

『フツヌシ、すごいね!』

『今日も、あの遊びがいい!』

『また明日ね! フツヌシ!』

 もしかしたら自分も昔は、楽しそうに笑っていたのだろうか?


「這いつくばって、土下座します! 今日も私は、最低です!!」


 急に現実に、引き戻された。


 ウィアンの声だ。

 彼はこの言葉を、実に能天気で楽しそうに、毎朝欠かさず言っている。

「幸せなやつだな」

 フツヌシはウィアンを内心、羨ましく思った。

 どこまで覚えているのだろうか?

 ウィアンの本当の母親がウルスィという名で、彼を生んでからすぐに、どこかへいなくなった、ということを。

 ウルスィは礼環そっくりだが、心の中の大切なものを、失っていたということを。

「フツヌシ様、今日も元気に、土下座しましょうね!」

「……全部、忘れてそうだな」

 石凝姥命《いしこりどめ》から奪った設計図を使って、巨大な黒奇岩城《くろきがんじょう》を作ったまでは良かった。

 奪うのと盗むのは、もはやフツヌシの十八番である。

 そうしないと高天原では、とても生きていけなかった。

 そして、その黒奇岩城が思いがけず、深名斗をはじめとする黒龍側の神々全てに賞賛されてしまい、フツヌシは一級建築神のポジションを築き上げてしまった。

 建築のことなど、本当は何もわかっちゃいない。

 わかっちゃいないながらも、どうしてもこだわりを見せたいため、設計図を無視して作り上げたのが『岩破邪《ガハジャ》の間』だ。

 あの部屋はとてもいい!

 入るだけで、フツヌシの『岩破邪』で洗脳できるシステムで構成されている。

 フツヌシはこの世界の息苦しさに、気づいていないふりをしていた。

 『岩破邪』の間は、自分自身が思い通りに出来る、たった一つの空間。

 そういう部屋を、一つだけでも、フツヌシは作りたかったのかもしれない。

 石凝姥命の初期設計など、くそくらえだ。
 
 しかし。

 フツヌシの幼馴染である闇の神・伽蛇《カシャ》が、すっかり黒奇岩城を気に入ってしまい、そこに妙ちきりんな部屋を作ってしまった。

 隔離室《かくりしつ》である。

『そしてその隔離室に、桃色の髪のチビ助を入れやがった』

 大地という名の。

「おい」

「何よ」

 伽蛇はフツヌシを睨みつけた。

「いい加減、あのチビどっかやれよ、目障りだ」

 黒奇岩城は『難攻不落の城』と呼ばれ、黒龍側に誕生した頭脳明晰な子供たちが教育という名のもとに、今や悪しき洗脳を施されている場所だ。

 大地は見せしめに使われた。

 徹底的に子供たちの前で、拷問を繰り返されたのである。


 見るに堪えない。


 ゾッとする。


 フツヌシは大地を見ると、思い出しそうになるのだ。

 
 自分自身が拷問され、洗脳され、隔離された日が存在したことを。


 そしてあいつの目は、いつもこちらを真っすぐ睨んでいる。

 
 まるで、悪者を見るかのような目で。


 それに牢ごしに見るたび、フツヌシにだけ罵声を浴びせるのだ。
 

「何だハゲ。まだ生きていやがったのか?」



 ふんがーーーーーー!!!!



 断じて!!!!!



 許さんっ!!!!!



「上等だコラァァァァ!」



 フツヌシが憎しみを素直に伝えられるのは、大地少年だけだった。



 大地とのやり取りは、フツヌシが唯一、自分自身に戻れる時間だったのである。



 自分は今、生きている。



 そんな気持ちを取り戻せる、貴重な時間だったのだ。