「なにしてるの?」

 いきなり話しかけられ、ビクッとしながら振り返った女性。

 コッソリ岩陰に隠れていた、若き日の礼環《レーデ》だ。

 声がした場所には、セーラーカラーの薄青い制服を着た、子供が立っている。

 学校帰りの、小さなフツヌシ。

 彼は礼環を、訝しげに見つめている。

「え、えーと、あの、その」

「このおうちに用があるの?」

「い、いえ! 違うの! ただ、素敵なお屋敷だなぁ、と思ったものだから……」

「ここが?」

 フツヌシは目を見開いて、大きな屋敷を見上げた。

 岩時温泉街から少し離れた海辺に建てられた、丸みを帯びた形の巨大屋敷。

 壁面には黒っぽい海藻がグネグネ巻き付いており、元の美しい姿を隠している。

 日暮れ時のこの場所ときたら最悪で、不気味過ぎてフツヌシは身震いした。

 風が吹くたび、海藻がギャンギャンと、轟音を立ててはためくのである。

 恐ろしくて夜は誰も、近づこうとしない。

「お姉さん、誰?」

「あ! はじめまして。私、礼環《レーデ》と言います」

「ボク、フツヌシ」

「フツヌシ、よろしくね! ねえ、見て」

 何かを思いついた礼環は、杖を振り上げ、短い術を唱え始めた。

「螺弦《ゼルレード》」

 すると。

 海玉の屋敷に蔓延る海藻が、綺麗に壁面から剝がれていく。

 シュルシュルと、音を立てながら。

 そしてきちんと巻かれた海藻たちは、地面にいくつも並べられていった。

 やがて、本来の美しい屋敷が現れた。

 珊瑚と透き通る石たちに彩られた、温かみのある外観に戻っている。

「すごい! おうちが綺麗になった!」

 フツヌシが笑うと、礼環もつられて微笑んだ。

「壁の部分だけ、時間を戻したの! ね? 素敵なお屋敷でしょう」

「うん!」

 急に、ハッと我に返った礼環は慌てて、フツヌシの前にしゃがみ込む。

「お願いフツヌシ! 私に会ったことや今見たこと、誰にも内緒にしてくれない?」

「え? いいけど、どうして?」

 礼環はみるみるうちに、顔を真っ赤にし、キョロキョロあたりを見回した。

「だって……ご挨拶もまだなのに、海玉《ウミダマ》様のお屋敷の壁を、変えてしまったのですもの! これじゃ私、ストーカーよりタチが悪いわ」


「ウミダマさま? すとー……かー?」


「あっ! もう海玉様が戻ってきちゃう! またね」


 礼環は一瞬で、どこかへと消えてしまった。


 その数秒後、禿げた頭の側面から二本の角を生やす海神が、屋敷に帰って来た。

 海玉である。

 この時のフツヌシはまだ、彼と面識が無いため、慌ててサッと岩陰に隠れた。

 フツヌシには気づかず、海玉は変貌した屋敷を見つめ、しばし言葉を失っている。

「……」

 このおうちの主?

 すっかり綺麗になったこと、どう思うだろう?

 フツヌシがハラハラしながら、コッソリ見つめていると……


「ワーッハッハハハ!!!」


 屋敷の主は笑い出した。


「?」


「誰だか知らんが、随分と派手にやってくれたものだ! わが家がとても綺麗になったのだから、感謝しなくてはな! ワーッハッハハハ!!!」

 海玉は笑いながら、屋敷の中へと入っていった。

 フツヌシはその時、彼の底抜けの明るさと寛大さに好意を持った。






 その後も礼環は、何度かフツヌシの前に姿を現した。

 どうやらコッソリ海玉の様子を見に来ているようなのだが、聞き出そうとすると、顔を真っ赤にしてしまう。

『礼環さまは、あのウミダマさまのことが、好きなのかな?』

 全然、イケメンじゃないのに。

 アタマも禿げてるのに。



 そんなある日のこと。



「ねえ見て! 礼環様!」

 フツヌシは、大岩の真ん中に立っていた。

 顔を真っ赤にし、体に力を込めている。

 地面がグラグラと、揺れている。


 ドォーン!!!


「わっ!」


「何かにつかまって! 地面が揺れるから!」

「わ、わかったわ、わわ!」


 ドドォーン!


「これ、ボクの力なんだ! 今は絶対、ボクに近づいたらダメだよ!」

「え、ええ」


 静寂を打ち破る、地鳴りの音。


 ドドォーン!


 フツヌシが叫ぶ。


「つまらないよーっ!!!」


 岩という岩が真っ赤に染まり、熱湯が地面から噴き出す。


 ドォーン!


「つまらないーっ!!!!」


 ドドー-ン!!


「どこかへ、連れて行ってー--っ!!!」


 礼環は、ポカンと口を開けたまま固まった。


 この力……なんて凄いの!


 ドドドーン!!!


 グラグラ、グツグツ!


 ボコボコ、ボコボコッ!


 地面から噴き上げる熱湯は、小さなプールと呼べるくらいの大きさになった。

 やがて静かになり、フツヌシは誇らしげに礼環に笑いかけている。

「……すごいのね。フツヌシ、あなた」

「えっへん! でもこれをやると母様にめちゃ怒られるんだ。だから誰にも内緒」

「……ええ。わかったわ」

 この子はわざわざ、大事な秘密を教えてくれたのだろうか。

 そう思うと礼環は嬉しくなり、フツヌシに笑いかけた。

「秘密結社《ひみつけっしゃ》成立ね」

 何故、フツヌシの母である深名孤がこの力を使うと怒るのだろう?

 礼環は考え、言葉を選び、フツヌシの目を見つめた。
 
「この力を使うとお母さまが怒るのは、どうしてだと思う?」

 フツヌシは首を傾げた。

「わかんない。ちっとも褒めてくれないんだ、こんなにすごい力なのに」

「うん。凄いわよね。多分お母様は、凄い力を持っているフツヌシが心配だから、怒ったのだと思うわ」

「??」

「世の中には、悪いことをする神がいっぱいいるの。フツヌシが今見せてくれた、熱くて、誰かが触れたら危険な力を、自分たちのためだけに使おうとする神がいる。いい神のふりをしながらね」

「悪いことを、する神……?」

 フツヌシおびえた。

「あなたが大きくなればきっと、悪いことをする神が誰なのか、見分けられるようになるはずよ。考えることを、諦めないでね。今はお母さまの判断を、信じて」

「うん。わかった」

「これは秘密結社の誓い。約束よ」

「約束するよ、礼環さま!」

 礼環とフツヌシは指切りをした。

「この誓いを忘れないため、時々ここに集まりましょうね! 今度はあなたの友達を、連れて来てくれるかしら?」

「う、うん!」

 今は、友達がいないフツヌシ。

 だがこれからは違う。

 大事な友達を作ろう。

 礼環に紹介し、秘密結社を大きくしよう。

 そう、心に誓った。


 




 岩時の地はどんどん大きくなり、いつしか大きな集落が出来上がった。

 居心地が良いため有能な神々が住みつき、きちんとした街が出来上がった頃。

 しばらく宿屋に滞在していた礼環が、フツヌシの前から姿を消した。

 深名斗がこの地に流した涙を10粒、処分するために高天原へ飛んだのである。

 正確には9粒。

 1粒はフツヌシが拾って、こっそりと持っていたのだが。







 それから礼環は、いくら約束の岩場で待っても、戻って来なかった。

 あの海玉様の、弟子になれた。

 大事な友達もできたから、彼らを紹介しようと思っていたのに。

 色んな話を、したかったのに。

 フツヌシがモヤモヤしていた、そんなある日。

 礼環にそっくりな女性が、岩時の地に現れた。

 街で彼女を見かけた宿屋の女将が、気さくに話しかけている。

「あれ、あんた、もしかして礼環さん?」

 フツヌシ、モモ、カイの3体は、ちょうどその場を通りかかった。

 振り向いた女性は、礼環そのものである。

 やっと彼女に会えたフツヌシはすっかり嬉しくなり、思わず叫んだ。

「あっ! 礼環さまだ! やっと戻って来れたんだね!」

「レーデさま?」

「あれ? 見たことあるような人だ」

「でしょ? ボクの仲間なんだ! ひみつけっしょを作った!」

「「ひみつけっしょ?」」

 しかし立ち止まった女性は、女将と目が合うと、首を横に振った。

「いいえ」

「どう見たって、礼環さんでしょ? ほら、うちの宿屋に一週間くらい泊まっていたじゃないか! しばらく見かけなかったけど、元気だったかい?」

 宿屋の女将は優しく、女性の肩に触れた。

 女性は心底嫌そうに、肩を動かし、その手をスッと払いのけた。

「人違いをしていませんか? 私はウルスィ。礼環という名ではありません」

「ええ?」

 話し方は事務的。

 態度も高圧的。

 ウルスィが女将を見る目は、小さな虫でも見るかのような、蔑みの視線である。

 以前の温かな礼環とは、あまりにも違い過ぎる。

 「あら、そうなの……? 勘違いしたみたいで、悪かったね」

 首を傾げながら女将が立ち去ると、ウルスィはフツヌシと目が合った。

 フツヌシは彼女に声をかけた。

「ねえ。ホントにあなたは、礼環さまじゃないの?」

「ええ」

「ひみつけっしょのこと、覚えてない?」

「……ええ」

 フツヌシは、女が嘘をついていると感じた。

 だが彼女は、どう考えても、礼環ではない。


「どういうこと??」


 何の因果かその一瞬だけ、最強神・深名斗《ミナト》の方が人間世界に現れた。

 しかも彼は岩時の地に戻ってきており、フツヌシ達の近くに立っていたのである。

 深名斗はウルスィの存在を認識し、つかつかと歩み寄り、声をかけた。

「おい」

「……はい」

「僕の涙を返せ! 鳳凰」

「何のことでしょう」

「あの時いくつか拾って、勝手に持って行っただろう!」

「……」

 ウルスィの体は、ガタガタと震え出した。

 この少年、只者ではない。

 眼力が違う。

 射すくめられ、身動きが取れない。

 力は恐らく、闇の神・侵偃《シンエン》より上だ。

 おかしな事を言ったりしたら即刻、殺されかねない!

「……知りません」

「しらを切る気か!」

 深名斗は杖を振り上げた。

 殺される!!

 ウルスィはギュッと、目を瞑った。

「……」

 殺傷の術では、無い?

 深名斗は声を上げた。

「天枢《ドゥーベ》!」

 彼女に何があったか、一瞬で調べ尽くす術式。

 最強神には、一体の神がどこで何をしたのか、すぐに把握できてしまう。

「……なるほどな」

 深名斗は理解した。

 礼環が鳳凰の力を使い、高天原の桃螺へ飛んだことを。

 禁断の地である霊泉ブラデレードへ、足を踏み入れたことを。

 光の神・遊子と共に、深名斗が流した涙をいくつか、処分したことを。

 そして闇の神・侵偃が現れ、彼によって礼環自身が、霊泉に落とされたことを。

 再び霊泉から蘇り、この世に舞い戻ったのが、今の『彼女』だということを。

 深名斗の中に、得体の知れない負の感情が、いくつもいくつも沸き起こった。

 一番強かったのは、闇の神・侵偃に対する怒りである。

 奴め、勝手な事ばかり!

 許さない!!!



「女。……こちらへ来い」



「はい」




「喜べ。お前の血を、吸い尽くしてやる……一滴も残らなくなるまでな」





「それだけは、どうかおやめください」





 フツヌシ達3体は、声がした方を振り返った。



「彼女は、私の妻なのです」



 そこには、海玉が立っていた。