不気味な静寂が訪れた。


「礼環《レーデ》……?」


 七つの月光が浄化霊泉『ブラデレード』の水底にある砂を、煌めきながら輝かせている。


 澄み渡った泉の中に、礼環の姿は影も形も、見当たらない。


「礼環《レーデ》!」


 泉は波打ちながら生き物のように、揺蕩い続けている。


 遊子は自身も泉に入ってしまいそうなほど側へ近づき、叫び声を上げた。


「わあああーーーッ!!」


 ────キイン!


 遊子の叫びを聞くと、侵偃《シンエン》は頭が割れるような、激しい頭痛を覚え始めた。

「……?!」

 能力は高いが、遊子はただの子供。

 優秀な両親のもとに生まれたわけでも、名門の学術機関出身でも無い。

 金欲しさにバイトの応募をしてきただけの、とんでも無いアホだから雇った。

 受付の仕事をしながら、こそこそゲームをやっている事も知っている。

 なのに。

 キレた遊子は、とてつもなく恐ろしかった。

「神を、泉に落とすなんて!! 涙や汚物とはわけが違うんだぞ!!」

 驚いたことに侵偃は、遊子の瞳に射すくめられ、身動きが出来なくなっている。

「殺すなんて、あり得ない!!」

 侵偃が頭痛の原因にハッキリと気づくまで、何十年もの年月が必要となる。

 後に、光の最高神に任命されたのがこの遊子だと聞かされた時、舌打ちをした。

「殺してはいません。私は彼女を分解しただけですよ……粒子状に」

 闇の神は、どんなに足掻いても、光の神の力に正面から対抗する事が出来ない。

 だから、子供かどうか、大人かどうかは関係無い。

 侵偃は現時点で、力の相性が悪い遊子に全く太刀打ち出来ず、歯が立たない。

 後に光の神一族に追い詰められるまで、それを嫌というほど思い知らされるのだ。

「彼女を元に戻せ! 今すぐに!」

 子供に責め立てられるという予想外の出来事に、侵偃は戦慄を覚えた。


「そんな事出来るわけがない! おい、私を誰だと思っている! いい加減に」


 バカだから、子供だから、何も問題ないと、高を括っていた自身に問題がある。


「わああああッーーーー!!」


 キイン!


 遊子の全身から光の粒が発生し、七つの月光を纏い、侵偃に向けて襲い掛かる。

 凄まじい光の嵐がグルグルと侵偃の首に巻きつき、捻りつぶしてゆく。

「グッ……!」

 まるで巨大な蛇のような光の攻撃に、侵偃は死の恐怖を感じた。

「く、苦しい……や、やめなさい! どうしたのです……遊子。元はお前が……」

 誓いを破り、部外者をこの場に侵入させたのだ。

 泉の力を与え、下らない女の願いを、叶えてやろうとした。

「お前のした事に比べたら、半端な体の女鳳凰を浄化霊泉に入れることくらい……」

 苦しくて言葉が続かない。

「礼環はフツヌシの元に、早く行きたいと言っていたんだぞ!!」

 キイン!!!

 遊子の攻撃がこれ以上激しくなったら、侵偃の頭と体はちぎれて死んでしまう。

「フ……ツ……ヌシ? あの、小僧の、こと、か……」

 侵偃は思い出した。

 フツヌシは伽蛇の幼馴染。

 人間世界に住んでいる。
 
 がくりと膝をつきながら恐怖の最中、侵偃の口から、ひらめきが生まれ出た。

「殺していませんよ……。彼女は今、《《生まれ変わります》》」

 自己防衛のためだ。

 誰かを堕とすため。

 みっともなく脂汗を流しながら、生きるためには何でもやってのける侵偃。

「生まれ変わる?」

 遊子はピタリと、泣くのをやめた。

「そうです」

 侵偃は両腕を天高く上げ、杖を一振りした。

 泉が音を立て、ぼこぼこと波打つ。

 澄んでいたはずの水が一瞬濁ると、黒々とした何かが水底から舞い上がった。

 その黒色の水は上空で旋回し、膨らみを帯び、飛び散って剥がれ、中から……

 礼環そっくりの女性が現れた。


「礼環?!」

 
 現れた女性は遊子が先ほどまで話していた礼環……黄金の鳳凰、そのものだ。

 透き通るような銀色の髪に、切れ長の瞳。

 真っ白な肌に、引き締まった唇。

 なめらかな細い体には、白に銀の細工が施された美しい装束を身に着けている。

 だが。

 女性は、遊子を見なかった。

 どこか一点を見ているようで、一切目に映っていない。

 何も考えていないように感じる。

「ねえ、僕の声が聞こえない? あなたは本当に、礼環なの?」

「彼女は『ウルスィ』です。礼環ではありません」

「はあ?」

「礼環の必要な部分だけを、泉から取り出したのがウルスィです」

 ウルスィ。

 意味は──『従う』。

「じゃあ礼環はどこ? 必要な部分って何?! 《《あなたに必要な部分》》だけを残して、彼女を殺したんじゃないか!」

「殺してはいないと、何度言ったらわかるのです。生まれ変わらせただけです。さ、ウルスィ……こちらへ」

 ウルスィは、侵偃の腕に自分の腕をからめて、歩き出した。

 どこか冷酷な瞳を、ちらりと遊子に向けてから。

 侵偃は遊子が動揺したタイミングを計り、黒天権《クスメグレズ》を唱え、この場から消え去った。


 ────ウルスィと共に。


 遊子はしばし、呆然とした。

 今、何が起こったんだ?

 信じたくない。 

 礼環をこれほど危険な場所に連れてきた、自分のせいだ。

 永遠に彼女は、フツヌシを助けに行くことが出来ない。

 そう思うと怒りが沸き起こり、遊子はやっと声が出た。


「わあああああーーーッ!! 礼環!! 礼環!! 礼環!!!」


 遊子の声は光に変化し、その輝きが霊泉の表面を覆ったかと思うと、泉の底から温かな口調の返事が返ってきた。


「はい」


「────礼環?」


「はい。遊子」


「……そこに、いるの?」


 泉は再び、水しぶきを上げた。


 七色に輝き、噴き上げ、変化し、くるくると回り、そして……


 小さな小さな、紫色に輝く、遊子の小指くらいしかない礼環を作り上げた。


「礼環!」


「ただいま」


「……小さい」


 遊子の掌の上に乗った礼環は、はにかむように微笑んだ。


「私、粒子の塊にされちゃったみたい」

「……そんな」

「でもね、体が軽いから、意外と快適なのよ」

「……うぅ……ごめんなさい……僕のせいで」

 礼環は首を横に振った。

 遊子は何も悪くない。

 それどころか、力を与えてくれた。


「ねえ、お願い遊子。私、どうしてもフツヌシの元に行きたいの。この姿ならあなたの力で、人間の世界まで、飛ばしてもらえるのでは無いかしら?」


 遊子はホッとしたが、同時に後悔でいっぱいになり、大粒の涙を流した。


 そして、うわ言のように「ごめんなさい」を繰り返しながら、力強く頷いた。












「それで私は、飛ばしてもらったの。フツヌシの『中』へ」

 巨大岩と化したフツヌシは、礼環の話を聞いて、申し訳なさで一杯になった。

 つまり彼女は自分を助けるために、粒子にされてもなお、戻って来てくれたのだ。

「そんな事があったなんて……」

「あんたは死んじまったのか? だから、ここに来れたのか?」

 凌太は、礼環に直接尋ねた。

 信じられないような内容の話だったが、理不尽な出来事に憤りを覚えている。

 礼環は首を傾げた。

「粒子にされたのは確かね。でも鳳凰は簡単には死なないので、よくわからないわ」

「ウルスィとかいう女は? あんたのふりして、のさばってるのか?」

「いや。あの女は性格が冷たすぎるから、礼環様では無いと、すぐ皆に気づかれた。見た目は一緒でも、中身が違い過ぎるからな」

 フツヌシは過去を思い出し、凌太の問いに答えた。

「海玉様がおかしくなっちまったのは、ウルスィが突然、現れたあたりからだ。あの女はしばらく、岩時温泉街にいた。けど突然、誰かの子を身ごもって、生んでからどっかへ消えちまったんだ」

 ウルスィが産み落とした子供こそが、ウィアンである。

 ウィアンは温泉街のみんなに、可愛がられながら育てられた。

 彼はずっとフツヌシに懐いており、離れようとしなかった。

 だから高天原の黒奇岩城まで、行動を共にすることになったのである。


「ずっと見てたわ。あなたの中で」


 礼環は懐から、紫の巾着を取り出した。


「……ここに来て、見守っていて本当に良かったのよ。見て」


 巾着の中身を凌太とフツヌシに見せ、笑顔になった。


「黒い勾玉。深名斗様の涙。乾いてすっかり、カチカチになっているの」


 黒龍神・深名斗の涙は、フツヌシの体の中で、ほとんど溶けていなかった。

 よく見ると、白い『何か』でコーティングされている。

 白龍神・深名孤の涙が、体内で一緒だったからである。



 この場所では、黒龍神の涙が、存分に力を発揮することなど到底出来ない。

 

 岩の神フツヌシは、白龍神・深名孤に心から愛された子供だったからである。