桃色の『のれん』がはためく、岩時温泉街。

 地面から湯気がさかんに噴出していて、息を吸えば熱いエネルギーを感じられる。

 ここは岩時城天守閣からやや南、羽衣の城からはやや東にあたる。

 温泉街を営むメンバーは昼食におむすびを食べながら、重大な会議を開いていた。

 近所に住む常連の神客は、疲れのたまりやすい夕方、神石をタッチして『のれん』をくぐり、温泉の効能を求めてやって来る。

 話し合うなら今しかない。

「モグモグ……どうするんだよ、モモ! やばいじゃないか、カイ! あのお方……『早く本格派温泉に入りたい』の一点張りだぞ?」

 頭が禿げあがった男性が、モモとカイを厳しく糾弾している。

「お父様、モモとカイを責めないで!」

「リンナ、黙れ!」

 リンナと呼ばれた金髪の少女は、父親に怒鳴られて頬をふくらませている。

「あのお方は過去のことを、忘れているのか?」

「きれいさっぱりね」

「ウルスィのことも?」

「そう。……ウィアンのこともよ」

 後ほど明らかになるが、『あのお方』とは、深名斗(ミナト)のことである。

「ゴクゴク……うん、困ったねぇ。『本格派温泉』なんて、もうどこにも無いのに」

 お茶を飲みながらモモはギロリと、紺色の浴衣を着たカイを睨みつけた。

「どうしてあんな嘘ついちゃったんだ、カイ。フツヌシはもう、いないんだよ?」

 湯気で丸眼鏡を曇らせながら、カイはしゅんとして小さくなっている。

「でもまた、戻ってくる可能性だってあるだろ? そうすれば本格派温泉だって」

 復活するに決まってる。

 カイの一言に、温泉街のメンバーから苦情が飛び交った。

「まだそんな、絵空事を?」

「現実を見ろよ!」

「もう限界だ! 若い奴らは都会に憧れて、次々と出てっちまうし!」

「ライト温泉を維持する水源だって、いつ尽きるかわからない! 逃げよう」

 フツヌシが失踪して以来、温泉街はボロボロの状況が続いていた。

 ライト温泉だけは何とか存続していたが、過去に人気のあった本格派温泉に比べ効能が低いため、これでは温泉というより銭湯である。

 だが努力の結果、神石による割引アプリや、神スタ映えする湯煙アトラクションで、徐々に客足が戻ってきつつあった。

 何とかこの地の財源を復活させることが出来るかも知れない、と感じていた矢先の出来事に、皆のショックは大きい。

「ねえ、フツヌシ様は本当にもう、戻ってこないの?」

「たぶんね」

 モモがリンナの問いに答えると、皆は頭をがっくりと下げ、嘆いている。

「俺らはずっとフツヌシ様の力に頼りすぎていたんだよ、なあ」

 フツヌシの師匠である海玉《ウミダマ》が闇の神親子に操られ、海から出られなくなった事が、そもそもの原因だ。

 守ってくれる神がいなくなり、フツヌシは突然、この地から消えた。

 彼が生み出した温泉パワーだけが唯一の、この地に生きる者たちの希望だった。

「本格派温泉は二度と復活しない。あの方には事情を説明し、謝罪すべきだ」

 モモに言われ、カイはしぶしぶ頷く。

「カスハラ野郎に、殺されてくるよ」

 以前は本格派温泉の『管理番台師』だったカイ。

 この温泉街を守ることに誇りを感じていただけに、悔しそうである。

「『申し訳ありません。本格派温泉ならあります、って嘘ついちゃいました! 今はライト温泉だけです』って僕が言ったら最後だ! そうなったらモモ、この地のこと、よろしく頼むよ」

 モモは覚悟を決め、首を横に振った。

「謝るときは一緒。行こうよ」

 返事がない。

「……カイ?」

 カイの方を見ると、彼はポカンと口を開けながら空を見ている。

「ねえ、あれ見て!」

「ん? ────んギャっ!」

 モモは、カイが指さす方角を見上げ、素っ頓狂な叫び声をあげた。

 何かが猛スピードで落ちて来る!


「な────ななななな、なにアレ!」


「さあ────わ、わわわわわわかんな」



 ズドーーーーーン!!!!!



 モモとカイは唖然とした。


 モクモクと土煙、いや岩煙が起こり、それがやや薄らいだ頃に現れたのは……


「「は、はははっははっ……白龍様?!!」」


 落ちて来たのは艶やかで美しい、巨大な白龍だった。

 その白龍はみるみるうちに小さくなり、人の姿に変化してゆく。

 髪は肩まで無造作伸びている、柔らかなピンク色のくせっ毛だ。

 白い装束を身にまとい、濃くて深い緑色の瞳を揺らしている。

「桃色……?」

「あれ、さっきまで白龍様だったのに……変身した?」

 モモとカイが動揺している中、桃色の髪を持つ青年は声を発した。

「いててて……」

「わっ!」

「喋れるのっ?!」

 どうやら彼は喋れるらしい。

 右腕を痛そうにさすっているが、大した怪我ではなさそうだ。

 彼はゆっくり上半身だけ起き上がり、モモとカイを見つめている。

 何故か彼の手には、白くて美しい花がしっかりと握られている。

 モモは慌てて駆け寄りながら、白龍だった青年に質問した。

「あなた、名前は?」

「大地だ」

 続いてカイが丸メガネの縁をあげながら、質問した。

「どこから来たんですか?」

「……さっきまでは、螺旋城《ゼルシェイ》の地下にいた」

「螺旋城だって? ずいぶん離れていますが、どうやってここへ?」

「よくわかんねぇんだ……。この花が目指す方を追いかけて、湖に潜ったとこまでは覚えてるんだが……ここはどこなんだ?」

 湖の美しさはすっかり消え失せ、辺り一面黒々とした世界に大地は降りてきた。

 ゴツゴツした岩ばかりの場所に、カラフルな「のれん」がかかっている。

 威勢のいい声で若い客引きが、通りかかる生き物に声をかけている。

「ここ? 岩時温泉街ですよ」

「温泉?」

 大地は目を見開いた。

「まーた、妙な場所へ来ちまったのか……」

 まだ行方知れずの凌太とさくらを、何としてでも早く探し出したい。

 あれから随分と時間が経過してしまったように感じる。

 深名斗《ミナト》が黒と白の魂の花を食べたグロテスクな様子が、脳内に蘇る。

 よほど体に合わなかったのだろう、深名斗は白い魂の花だけを吐き捨てた。

 そして妙ないきさつにより、その白い花を大地が偶然手に入れた。

 花の導きによるものなのか? ここに来るのが正解だったのか、わからない。

 様々な想いが駆け巡り、知らず知らずのうちに涙が溢れそうになる。

 自分の力で壊した螺旋城《ゼルシェイ》と、新たに生まれた螺旋城《ゼルシェイ》。

 追いかけても追いかけても、湖の底へ潜ってゆく魂の花。

 どこへ向かえばいいのか、わからなくなった自分自身。

「すごく、遠くから来たような顔をしていますね」

 カイに言われた大地は、はっと意識が現実に戻る。

「ああ」

 モモは腕組みをしながら、大地に声をかけた。

「……とりあえずこっちへ来て下さい、大地。番台のすぐ側は目立つから。リンナちゃん、しばらくここ頼むよ」

「はあーい」

 リンナと呼ばれた神獣が、元気よく手を挙げて返事をした。

 モモに促されて控室に連れて行かれた大地は、淹れたての茶を飲みながら説明を始めた。

「この白い花の『先端部分』を追いかけていたら、ここに着いたんだ」

 手に握る白い魂の花を、紫色の螺旋を描く光が包み込む。

 すると不思議な事に、今まで伸び縮みしていた茎がシュルシュルッ! という音を立てながら短くなり、白い花の部分が大地の手に戻ってきた。

「おおっ!」

 大地はホッとして、笑顔になった。

「何だか知らんが、元に戻ってくれて助かったぜ!」

「今までは、違う形だったのですか?」

「ああ……こいつには、振り回されっぱなしだ」

 茎の先端部分が下へ下へと伸びていくため、白龍姿の大地もどんどん下へ降りた。

 近づけたと思うと茎は短くなり、遠ざかったと思うと茎は長くなり、永遠に追いつけないかと感じることも。

 それでも大地は、白い魂の花からは絶対に、手を離さなかった。

 体中が心臓になったように、ドクドクと音を立てながら動いていた。

 離したら目指す場所がわからなくなるため、一巻の終わりである。

 命がけで、ここへ来た。

 脳の奥が何かとてつもなく強い力と、結ばれたような心地になった。

「ねえ。何ならうちの温泉に入って行きませんか? 大地、随分疲れているみたいだし。何かお困りなら体を温めたほうが、早く解決策が見つかるのでは? お金がないなら、特別にサービスして差し上げますよ」

「え。ちょっとモモ」

『カスハラ野郎にはそのあと、謝罪すればいい』

 モモはカイに、小声でそっと耳打ちした。

 大地が現れてくれたことで、ひょっとしたらいい方向に転ぶかも知れない。

 ふと、モモはそう感じたのだった。

 こうして大地は、ライト温泉に入らせてもらうことになった。

 湯煙が濃くて香りの良い場所へと案内され、熱さに思わず声が出る。

「あちっ!」

 空気も、地面も、何もかもが熱を帯びている。

 一体、何と読むのだろう? 目の前にはのれんがあり、「ト゚」と書かれている。

 係員に黒い浴衣を手渡され、あれよあれよという間にのれんの中へ。

 ドボン!

 視界がぼやけているため、いきなり湯の中へと、飛び込んでしまった。

 暖かくて気持ちいい。

 少々ぬるめだが、長く湯に浸かるには丁度いい。

 体が徐々に癒されてゆく。

「……」

「……」

 巨大な岩のすぐ後ろにあたる場所から、二人の男性の声が聞こえてくる。

 耳を澄ますと、内容も聞こえてきた。

「本格派温泉の他にはライト温泉、子供用温泉、大人しか入れない温泉、近未来を模したSF温泉などがある、と言っていたではないか!」

 どこかで聞いたような、耳障りな少年の声。

「?!」

「本格派温泉は準備中のためしばらくお待ちください、と担当が言っておりました。このライト温泉に入りながら、今しばらく待ちましょう。そもそも『本格派温泉は面倒臭そうだ、ライト温泉に興味が湧いた』と仰ったのは深名斗様ではありませんか」

 父さんの声!

 相手は、深名斗?!!

 マジなのか?!!

 大地は驚いて、声を上げそうになった。

「そう言われてからもう3日が経つ! いくら待たされるにしても度が過ぎるぞ!」

 久遠は深名斗に対し、長々と説明を始めた。

「そもそもこのライト温泉を、ライト温泉として明確に定義づけるものは、現時点ではございません。後世の温泉評論家が客観的な視点できちんと分類するでしょう。しかし主観的かつ性急に『温泉』を分類したがる者で、溢れているのが現状です」

「それは以前聞いたぞ!」

「とりあえず今は『香りが良くて入りやすく、リラックスできる温泉』をライト、『臭いがキツくて熱すぎるけど何とか入れないことも無くて、体に良い成分が含まれているためクセになっている者が多い温泉』が本格、と考えられております、が」

「それも聞いた。……一体何が言いたい」


「この場所が『本格派温泉』に変わる可能性もあります。一瞬で」