岩時城を事実上支配している、最古の水神・岩門別(いわとわけ)

 大地が親しみを込めて、『トワケ』と呼んでいた老神だ。

 灰色の装束を身にまとい、黒くて大きな杖を持った小さな老人が、(ソウ)をジロジロと睨んでいる。

 一体どこから現れたのだろう?

 扉もエレベーターも見当たらない、だだっ広い場所だというのに。

 もしかすると、床下から現れたのだろうか?

 (ソウ)がジッと床下を睨んでいると、岩門別が大きな声を上げた。

「誰じゃ、そなたは!」

 頭頂部にチョコンと乗った、緑色の頭巾がなんとも可愛らしい。

「はじめまして。(ソウ)と申します。この城では、妻の姫鞠(ヒマリ)が大変お世話になっているようで……」

「なんと! そなたが……」

 岩門別の白髪と口ひげは、彼が言葉を発するたびに四方八方に向けて、揺蕩うように揺れている。

 そして辺りには、得体の知れない無数の巨大な生き物達が、小さな彼を取り囲むようにして守っている。

「姫鞠の夫……時の神のトップ・爽じゃというのか!」

「そうそう。夫の爽です。お師匠」

 即座に姫鞠が、岩門別に答える。

「爽か。そうか、爽、そうそう、ええい、ややこしい!」

 岩門別は、激しく困惑しているようだ。

 爽が思いの外、涼やかな外見の美青年だったせいもある。

「年は我とあまり変わらんはずじゃろう。こんなに若作りしているとは、思わなんだ」

「若作り?」

 爽は心の中で首を傾げた。

 天涯(てんがい)の術はかけていないはずだが。

「とにかく爽よ!」

 岩門別の小さな体からは想像もつかないような、太くて深い、野性味溢れる響きを帯びた声が放たれた。

「はい」

「我は、そなたに感謝しておる。この素晴らしい世界を生み出した神のうちの、一体なのじゃからの。しかし、これだけは言うておく……」

「?」
 
「こんの、たわけーーっ!」

 ゴンッ!!!

 岩門別はいきなり、大きな黒い杖で、爽の頭を思いっきり殴った。

「?!」

「姫鞠がここに来てから、何百年経ったと思っておる! どれだけ嫁を放ったらかしにしとるんじゃ! いつ迎えに来るかと待っておれば……」

「……申し訳ございません」

 爽はズキズキする頭を押さえ、苦笑いした。

 誰かに怒られるなど、何百年振りだろう?

 というか、自分より年を取った老神に会うこと自体、稀である。

 よく見ると岩門別の足からはたくさんの触手が伸びており、地面としっかり繋がっているため、彼はこの城から出られないようだ。

 姫鞠の夫が突然この場所に現れ、急に彼女を連れて行かれてしまいそうなので、内心動揺している?

「あ。いえ、姫鞠を迎えに来たわけではありません。彼女には偶然会いました。私は壊れた武器を直したくて、ここへ案内してもらったのです」

「武器?」

「これです」

 爽が取り出した白銀色の杖が鈍い輝きを放つと、咲蔵の中にいた武器職人達は「おおっ!」と、どよめいた。

 岩門別はしばらく、無言になって杖をジロジロと見つめている。

「……」

 気づくと彼の弟子達が、爽の杖の周りに、たくさん集まってきた。

「これが……鳳凰(ほうおう)の杖なのか。随分美しいな!」

「これならば、とんでも無い力が出せるだろう!」

「これほどの立派な杖は、初めて見るぞ!」

「先端が壊れておるな。じゃが安心せい。すぐに直せるじゃろう!」

 最後の言葉は岩門別だった。

「本当ですか。それは良かった」

 爽はホッとして微笑んだ。

 杖さえ直れば、何とかなる。

 そんな風に思った矢先……

「はて、これは? 微弱だが術式の痕跡があるようじゃが……」

「ああ。それは多分、私が放った天空時(トウロス)でしょう」

天空時(トウロス)じゃと?!」

 術の名を聞いた瞬間、弟子たちがさらにザワついた。

 時の神が誇る最高の術式、天空時(トウロス)

 天界における術の中では最大級の力を誇る、時を止める呪文だ。

 螺旋を描いてに対象物に当たり、相手の力を封じ込める高度な術式。

 体得するには長い年月をかけて、複雑な構造全てを覚える必要がある。

 使う時には仕組みを一瞬で紐解き、新たに構築する必要があるからだ。

 感覚だけで身につけることは、絶対に出来ない。

 という理由から天空時(トウロス)は、時の神以外使えない。

「深名斗の黒天枢(クスドゥーベ)と私の天空時(トウロス)がぶつかった時に、天空時(トウロス)のかけらが粉々に飛び散ったのです」

 咲蔵中が一斉にどよめき、弟子達は震えおののいた。

「かけらが?」

「粉々に?!」

「飛び散った?!!」

「たわけがっ! 爽よ、そなた、一体何をやっておるのじゃあ!」

 岩門別は、あたりに響き渡る低音ボイスで叫んだ。

 彼の小さな体とは不釣り合いだなぁと、爽は笑いそうになる。

「すみません。私もそう、思います。爽は、そう、思います、そうそう、爽は、そう、思いますっ。なーんちゃって!」

 ゴンッ!

 爽はまたしても、岩門別に杖で殴られた。

「ふざけるでないっ!」

「今のはさすがにまずい。爽様」

 姫鞠に言われ、爽は「そう、だねぇ」と呟き、ヘラヘラと笑った。

 そろそろ自重しないと、タンコブばかりが増えてゆく。

「天空時はどんな事物とも絶対に、混ざり合わない力のはずじゃ! ぶつかった時、黒天枢(クスドゥーベ)はどうなったのじゃ?」

「えーと。確か、包まれながら消滅したと思います」

「消滅? 本当か」

「……はあ。多分」

「確かとか! 多分とか! とんでもなく無責任な奴じゃ!」

「そう。お師匠の言う通り。爽様は恐ろしいくらい、無責任なの」

「そんな言い方無いよね? 鞠」

 遠い過去より黒天枢(クスドゥーベ)に匹敵する力は、天空時(トウロス)だけだと、伝えられていた。

「それにだ。破壊された天空時(トウロス)のかけらを杖の中に全て回収しなければ、永遠に世界が元には戻らないぞ。時空に歪みは?」

「確か……起きましたね」

「どこで?!」

螺旋城(ゼルシェイ)の、地下です」

「……何てことだ。最初からきちんと、説明してもらおうか。そもそも、そなたは何故、この人間世界へやって来たのじゃ」

 爽は岩門別に説明した。

 最強神・深名斗(ミナト)が人間世界へ行き、久遠の息子である大地に禁断の力である、黒天枢(クスドゥーベ)を使わせたことを。

「大地じゃと! あやつはいつ、黒龍側の最強神などと繋がりを持ったのじゃ! なぜ黒天枢(クスドゥーベ)を使いおったのか!」

「さあ。私が人間世界へ行く()に起きた事ですので」

 自分のせいではない、という事だけ強調したかったのだが、岩門別にギロリと睨まれ、爽はしぶしぶ詳細を説明した。

「最強神の反転については、ご存知ですか?」

「書物を読んだくらいじゃが。知識としてはある」

「その反転が大地の目の前で、起こったのです。それで何故か彼、深名斗に気に入られたみたいで、そのまま」

「一緒に螺旋城に行った、というわけか……」

「そうです。黒天枢(クスドゥーベ)を放ったり、何やかんやあって、あの城は白黒になっちゃいましたが、何とか時の輪は元に戻せました」

 爽は自分の仕事ぶりを、さりげなくアピールした。

 岩門別は、それどころではない。

「大地は、やはり……力を制御出来なかったのか」

「あの状況では力の制御など、とても無理だったでしょうね。過去に遡った深名斗が気まぐれを起こして、時の王の結婚式を破壊しようと企んだんです。大地はまんまと最強神(ミナト)の黒い涙を飲まされて、無理矢理暴れさせられたんですから」

 岩門別は、狂った大地が螺旋城で黒天枢を放った瞬間を、想像した。

 黒天枢は、光も、氷も、霧も、雷も、闇も、風も、全てを飲み込んでしまう、恐ろしい力。

 発生させること自体が、恐らく前代未聞の出来事である。

 世界を破滅させるような事態なのに、避けられなかったというのか?

「起きてはならぬ事が、起きてしまったというわけか……」

 あの時、力の制御を完璧に教えてやれなかった事が、悔やまれてならない。

「それを知った天界の方におわす最強神・深名孤(ミナコ)がとても心配して、私を螺旋城へ遣わせました。あそこは元々、時の神だけの管轄ですし。んで、何やかんや、ありましてね」

「だから、大事な部分を簡単に端折るでない」

「戦いの最中、私の天空時(トウロス)が、深名斗が放った黒天枢(クスドゥーベ)とぶつかったのです」

「最強神と戦ったのか! そなたも、なかなか狂っておるのう!」

「ええ。ですが今は後悔してます。戦わなきゃ良かったです。久遠みたいに上手く誤魔化して、温泉とかに誘導すれば良かったんです。取り敢えず黒天枢は封じ込めましたが、時空が歪んじゃいましたからね」

 時間の不具合が一層深刻化し、ジン、シュン、ナユナンが行方不明に。

「私が放った天空時(トウロス)のかけらはあちこちへ飛び散り、その歪みの中へ、いくつか吸い込まれてしまいました」

「こんの大たわけが……」

 岩門別は首を横に振った。

 爽は思う。

 自分は大たわけだった。

 誰にも怒られないまま数千年以上生きていると、自分が最強神に近い、無敵の強者だとしか思わなくなるものである。

 この瞬間、目の前の老人に怒られた事により、それを思い知らされた。

「杖の修理には数日かかる。しばし待て。そなた、天空時のかけらを全て回収する前に、最強神・深名斗に邪魔でもされたらどうするつもりじゃ。気まぐれで大地を操って時間を破壊し、自ら黒天枢を放ったのじゃぞ? このまま野放しにしておったら、危ないのではないか」

「そうですね。……恐らく、まだ近くの温泉にいると思います」

「温泉?」

「ライト温泉とか、本格派温泉とか、言ってました」

 岩門別はしばらく思案した後、頷いた。

「なるほど。何となくじゃが、場所はわかった。今から教えてやるから夫婦揃って、旅行がてら様子を見て来なさい」

「?」

「?」

 爽と姫鞠は目を見合わせた。

「我はほれ、この通り、この地から離れられぬ体じゃ。そなたら夫婦水入らずで、旅と温泉もオツなもんじゃろう。ずっと会えなかったのじゃからのう……」