時の神・(ソウ)は慣れない人間世界で、すっかり困惑していた。

 完全に、道に迷ったのである。

 しかも、高度な術式を使う力が、すっかり尽きてしまった。

『この近くには、岩時城があるのみ、か……』

 壊れた杖を直したいが、自分では直せない。

 深名斗(ミナト)に向けて放った『天空時(トウロス)』が散り散りのままなので、危険なそれらを回収しないことには、高天原へ帰れない。

『岩時城って言っても、どこをどう歩けば着くんだ?』

 爽は、人間世界の歩き方を知らない。

 そこで偶然通りかかった、艷やかな黒髪の女性に声をかけたのだが……

「そこのお方。ちょっと道をお尋ねしたいのですが。岩時城はどこでしょう。武器工房へ行きたいのです」

「……これから戻るので、ご案内いたしましょうか。私はその武器工房の者です」

 紺色の着物に白い帯を付けている、背が少し小さめな美女が振り向く。

 時の神・爽は仰天した。

 深い海のように澄んだ、青い瞳が、こちらを見上げている。

 美女の正体は爽の妻、姫毬(ヒマリ)だった。

「…………爽様?」

 姫鞠も爽を見て、目を見開きながら驚いている。

 体も心も、動かない。

 時を止めてはいないのに。

 再会した爽と姫鞠を、静寂だけが包み込む。

「……」

「……」

 どう見ても、本物の姫鞠だ。

 けれど雰囲気が、昔と全く違う。

 瞳の奥から形容しがたい鋭さと、冷酷さが漂っていたはず。

 なのに。

 今は未来への希望を感じさせるような、優しい笑みを浮かべている。

「何故、ここに?!」

「…………毬。久しぶり」

 この瞬間。

 今までで最も間抜けな表情になる自分が、爽は憎かった。

 驚きのあまり、互いにしばらく言葉が出て来ない。

 そうだった。

 姫鞠は、人間世界の武器職人。

 この近くにいて当然ではないか。

 爽は現状を打破する事で頭が一杯だったため、妻が今まで、どう過ごしていたかを想像出来ていなかった。

 彼女の雰囲気から今はもう、爽に対する拒絶を感じない。

「爽様……!」

 姫毬はまっすぐ、自分の胸に飛び込んできた。

「すごく会いたかった」

 何百年ぶりだろう。

 柔らかな、今にも壊れそうな細身の妻を、この腕で抱き締めたのは。

「うん……僕もだ、鞠」

 えもいわれぬ、いい香りがする。

 これは夢では無いだろうか。

「ずっと……一緒にいたかった」

 眠っている間に、知らない男に血を勝手に吸われてしまった姫鞠。

 その知らない男の子供を、産んだ姫鞠。

 心と体が呪われた状態のまま、子育てをした姫鞠。

 自身の仕事のために、他の男と血の交換をするようになった姫鞠。

 当時の爽はショックを受けて気が狂い、別な女性と血の交換をするようになってしまった。

 何故、互いに縁を切ろうとしなかったのか。

 理由は簡単である。

 神々の世界には、離婚という制度が存在しなかったからだ。

 彼ら2体は結局、どちらも、別れを望んでいなかったのである。

 傷つきながら、迷いながら、それでも互いの心は、この状況を打破できるまで回復していた。


 時間というたった一つの、普遍的な力によって。


「もう決して、離さない」


「うん。私も。嫌がられても、もう爽様から離れない」


「嫌なものか! 僕は、姫鞠だけを愛しているんだ。ずっと」


 一番伝えたい言葉が、するすると喉の奥から飛び出してくる。

「うん。知ってたよ」

 姫鞠はギュッと、幸せそうに爽の体を抱きしめた。

「……武器を直したいの? 爽様」

「ああ」

岩門別(イワトワケ)様に、相談してみるといい」

「……あの御方が、ここに?」

「うん」

「知らなかったな」

 岩門別は、岩時城を事実上支配している、最古の水神だ。

 大地に光の術式『天璣(フェクダ)』を教えてくれたのも、岩門別である。

 緑色の頭巾を被った小さな老紳士で、爽も遠い過去だが面識はある。

「元は高天原出身みたいだけど、人間世界には彼を慕う弟子も多いよ」

「へえ……」

 岩時城は実在する。

 それは確かなはずだが、不思議な言い伝えの存在しか知らない。

 遠い過去に海へと沈み、現代では海底から時折、姿を現すという。

 深い海の底と同じで、本来はたどり着けない場所に存在するらしい。

 つまりは、いつ浮いてくるか沈むのか、誰にも予測できないのである。

 爽は、こういう伝説めいた話とは、無縁の生き方をしてきた。

 理論上可能となる事以外、ほとんど関わりを持たなかったのである。

「爽様に岩時城を案内するのは、かなり難しいかも知れない」

 そんな事を話しながら姫鞠は嬉しそうに、にやりと笑った。

 岩時城は幻惑だらけの世界だ。

 自分流に紐解いて打ち破る事など、出来るだろうか。

 永遠に抜け出すことは出来ない、とも言われている。

「でも大丈夫。私と一緒だから、爽様も行けるし、帰って来られる」

 爽は、自分がこの世で一番狂っていることを充分、理解している。

 迷いや悩み、苦しみや孤独と、真正面から向き合うのは大の苦手だ。

 自身を大人だと信じて疑わない、『頑固者』とは違うけれど。

 成長著しい子供のように、柔軟な考え方はもう出来ない。

 細く暗い道を姫鞠の後に続いて歩くと、いきなり視界が広がった。

 どこまでも続く、平原である。

 姫毬(ヒマリ)は懐から美しい毬によく似た、透き通った手のひら大の珠を取り出した。

 それを勢いよく、空中へと放り投げる。

  ────ヒュッ!
 
 次の瞬間、姫鞠は首に下げた青い筒のふたを開け、先の部分を口でくわえると、投げた珠に向かって銀色の針を放った。

  ────ピュッ!

 針が透き通った珠に命中すると、珠はみるみるうちに複雑な形の鍵の姿に変化した。

 鍵は巨大化し、膨らみ、虹色に燦然と輝き、爽が立っている地面へ深々と突き刺さる!


  ────ゴウッ!


「爽様、飛んで!」

「うわっ!!」

 姫鞠が術式を唱え、爽を少し浮かせる。

 爽は慌てて翼を広げ、妻を後ろから抱き上げ空に浮かぶ。


 ゴゴゴゴゴゴ!


 ゴゴゴゴゴゴ!


 巨大な何かが、地下から浮かび上がってくる。


『ここ、海底じゃ無いのに……』


 引っかかるのはそこだ。


 今は引き潮の時分なのだろうか。


 空からだと、とてもよく見える。


 間違いない、城だ。


 巨城を囲むように、大きな城下町も広がっている。


「中央にある天守閣が、武器工房────咲蔵(サクラ)だよ」

 爽は目を見張った。

「あれが……?」

「うん。あそこに降りよう」

 姫鞠に言われ、爽は天守閣の入口前へ静かに、降り立った。

 城門を守る門番2体は驚いていたが、姫鞠の姿を見て道を開ける。

 爽が会釈をすると、門番2体は爽の肩口に縫い付けられた紋章を見て呆然とし、深々とお辞儀をして彼らを中へ通した。

 まさか時の神の最高峰がこの城に来るなど、夢にも思わなかったのだろう。

「武器工房は、地下にあるんだ」

 暗い階段を降りる際、カラフルな光を灯しながら飛ぶ、丸い何かが目に入る。

「……もしかして、これ光る魂?」

「食べないでね。武器づくりに欠かせない、とても大切なものだから」

「僕は一度も、食べたこと無いよ」

 階段も回廊も、広々としていて手入れが行き届いている。

 あたり一面、小さな小さな桜の花びらで覆われており、まるで薄桃色の絨毯のようだ。

 やがて清々しくて甘い、花の香りが漂っている、広々とした工房に到着した。

「ここが咲蔵」

「……」

 とても城の中とは思えない。

 様々な生き物たちが元気良く動き回っている、武器作りの工房。

 武器や防具や道具、生きるために必要な発明品のような『何か』を、彼ら職人たちは夢中になりながら、楽しそうに作っている。

 岩門別は、どこにいるのだろう?

「もうすぐ帰って来ると思うよ」

 爽の気持ちを察したように、姫鞠が答える。

「……思ったよりも女性が多いな」

「そうだね、性別が無い生き物もたくさんいるけど」

 ここで出来たモノはどれも大変優れているから、かなりの需要がある。

 姫毬を含めて咲蔵にいるのは皆、師匠である岩門別(イワトワケ)の弟子ばかり。

 爽は今まで、このような世界があることすら、知ろうともしなかった。

「武器以外にもあるんだな……あれは、発明品?」

「そうだよ」

 今まで、考えたことも無かった。

 新しいモノをゼロから生み出す者達の、生き様など。

 ただ時間を作るだけでは、何もならなかったのに。

 助け合わなければ、超えられない壁にぶつかるだけだったというのに。

「面白い客を連れてきたな、姫鞠」

「お師匠」

 爽は後ろを振り向いた。

 ────全く、気配を感じなかった。

 すぐそこに、会いたかった岩門別が立っていた。