机の上には桜の花びらが一枚、落ちている。

 久遠はその優しい桃色を見つめながら、黒奇岩城に大地を探しに行った時の事を思い出していた。



 いくら探しても、大地はどこにもいなかった。

 あの邪悪な城の中には。

 時間ばかりが過ぎてしまい、久遠は少し焦り始めていた。

 一緒に来ていた梅は何かを思いつき、ふいに姿を消している。

 大地が隔離されていた場所は、もしかすると…………

 急に思い立ち、久遠は元来た場所へと引き返した。

 高天原に作られた、人間世界へ繋がる『桜の木』に似せた、不思議な巨木。

 久遠達はあの木から、黒奇岩城内部へ侵入を果たした。

 だからまさか、同じ場所に大地が閉じ込められていたなど、夢にも思わなかった。

 教えてくれたのは清名だ。

『久遠ちゃん、ここよ!』

 清名の声が導く方向へ、ゆっくり進んで行くと…………

 広々とした庭園の中央に、黒い巨木がそびえ立っている。

 木の前に立ち、久遠は首をかしげた。

「…………大地がここに? さっきはいなかったはずだが」

『ようく探すのよ! アタシが導いてあげるわ』

 清名が放つ緑色の光が、弧を描いて木のうろの中へ入っていく。

 大地を長い間閉じ込めていた隔離室は────この木だというのか。

 清名に続いて、久遠はうろの中へ入った。

 中は真っ暗で狭く、人一人くらいしか入る事が出来ない。

 他に人の気配は感じられ無い。

 天璣(フェクダ)の光で、木の『うろ』の中を照らし出す。

 すると。

 桃色の花びらぐるり! と、空間に舞い上がる。

 ワッと広がり、弧を描き、黒に変わって、また桃色へ。

 目まぐるしく色を変え、一つの所に留まらず。

 行ったり来たり……どこへ行く?

 久遠はやがて、別な空間へと移動するのを肌で感じた。


 ────空気が変わった。


 光がまぶしい。

 清名に続いて、木のうろから外へ出てみると…………

 そこは岩時神社のご神木である、桜の木の前だった。


「…………ここは」


 何気なく後ろを振り返ると、空洞だったはずの木のうろの中から、桃色の髪をした生意気そうな男の子が、ひょっこりと姿を現した。


 眩しそうに、彼は目を細めている。


「────大地!」


 間違いない、大地だ!


 なんと大きくなったことか!


 久遠の目から、いくつもいくつも涙が溢れ出て、頬を伝った。


「やっと見つけた……探したんだ!」


 久遠は小さな大地を、強く抱きしめた。


「…………」


 不思議そうな顔をしながら、大地は抱きしめられるがままになっている。


 ふと振り向くと、弥生と梅が涙を浮かべながらこちらを見つめている。


「弥生…………?」


 龍宮城で待っていろと、言ったはずなのに!


「大地を探すため、私の判断で弥生にも来ていただきました。勝手な事をして、申し訳ありません」

 悪びれもせず謝罪し、梅は意味ありげに目配せをした。

 彼女の視線の先には、成人したばかりの女性が立っている。

 大きな瞳に憧れを宿す、美しくて可愛らしい人間の女性だ。


「良かった…! みんな無事だったんですね……!」


 いきなり彼女は、ほっとした様子で久遠達に話しかけてきた。


「…………君は……誰だ………?」


 久遠は思わず、彼女に声をかけた。


「……さくらです」


 状況が今一つ理解できず、弥生と顔を見合わせて久遠は首を傾げた。

 梅は彼女に微笑みかけた。

「鳳凰の私には、何となくわかります。あなたは大人になった、さくらですね」

 さくらは微笑み、何度も頷いた。

「さくら………? 大地の結婚相手の?」

 久遠が尋ねると、さくらはますます嬉しそうに頷いた。

 弥生は目を見開き、にっこりと彼女に笑いかけた。

「……未来のさくらさん、なのね」

「……はい」

 久遠は小さな大地と大人のさくらを、交互に見つめた。

「??」

 大地はさくらを見上げながら、信頼した様子でにっこりと笑っている。

 聞くところによると、大人のさくらは木の中で、大地と会話をしたらしい。

 未来から時を超えて、思いがけず彼女はこの時代へ来てしまったそうである。

 木の中で一体、何があったのだろう?


 大地がこの上無く幸せそうな表情を浮かべているのが、見て取れた。


 苦しかったろうに。


 辛かったろうに。



 ……なんと強い子なのだろう!



 久遠の心には、ようやく小さな安堵の光がひとつ灯った。








 神社本殿に入ると久遠は少しずつ、大人のさくらに大地の状況を話して聞かせた。

「大地は今まで、さらわれていたんだ。人間を良く思わない神々の、嫌がらせによって」

 蝋燭を灯すと、本殿の中がまぶしく照らし出される。

「大地はいわれのない理由で拉致監禁され、事あるごとに隔離室に入れられた」

 梅はてきぱきと大地の服を脱がせて霊水で拭き、新しい白装束に着替えさせた。

「探し出すのに、とても苦労しました」

 子供の大地は、不思議そうに大人達を見つめている。

「ごめんなさいね、大地。……あなたを守れなくて。ひどい目に遭わせて」

 弥生は大地の手を握りながら、目に涙を浮かべている。

「…………おれ、ビョーキじゃないの………?」

 久遠と弥生は同時に、首を横に振った。

「お前は健康そのものだよ。あの一握りの、狂った神達よりも」

 大地は驚いた様子で、目を見開いた。

 彼はずっと、自分が病気だと思い込んでいたらしい。

 悪い大人達に嘘を吹き込まれて、それを信じてしまっていたのだろう。


「私は久遠。お前の父だ」


「お父さん」


「彼女が弥生。お前の母だ」


「お母さん」


「私は梅です。あなたにはこれから、私が作った龍宮城に住んでいただきましょう」


「梅」


「龍宮城は人間の世界と神々の世界の、中間地点ですから。夏祭りの時だけ、あなたは自由に行き来できますよ」


「人間とドラゴンのハーフは珍しいが、大人になったらもっと自由に変身できるし、行き来もできる。あの城で学ぶといい」


 久遠は一言だけ、大地に注意をした。


「だが人間の世界では、決して変身しない事。見つかると大変な事になる」


「……うん」

 
 大地には、幸せになってもらいたい。


 久遠と弥生は目を見合わせ、微笑みあった。








 大人のさくらを背に乗せて、梅が人間の世界────それも『大人のさくらが生きていた時代』へ送って行った、何日か後のこと。

 龍宮城の中で、風雅が彼女を呼び止めた。

「梅さん。少しよろしいですか」

「ええ」

「久遠様が放った殺傷の呪文・天滅(テス)により、黒奇岩城は跡形も無く、粉々になりましたので…………」

 学校が無くなった。

 そのため、それまで黒奇岩城に通っていた子供たちは、一旦親元へ返されることになった。

 親たちは、自分達の甘さと本物の恐怖を初めて知る。

 権威と思われていたはずの、難攻不落の学校が塵と化し、崩壊したのだから無理もない。

 一番大切な子供を、恐ろしい危険に晒したのだ。

 しかも。

 結果的には、得体の知れない教育を何年もの間、受けさせてしまった。

 今まで通わせていた『学校』が、悪しき洗脳教育を施す場所だった事を知り、憤怒にかられた者もいる。

 早急に、自分の子にきちんとした教育を受けさせなければ。

 黒龍側の神々の中には、我が子を龍宮城へ通わせたいと思う者まで現れた。

 現校長である風雅は、その事を包み隠さず、梅に相談したのである。

「通わせたいのであれば、いくらでも子供達を受け入れると良いでしょう。龍宮城は誰に対しても門戸を開いています。ただし」

 これだけは譲れない、と梅は風雅に続けて言った。

「大地に対する嗜虐的な拷問を直接見てしまった子供達については、記憶を全て消去させていただきます。その事を受け入れられない場合、入学は許可できません」

「わかりました」

 こうして龍宮城は、人間世界に興味を持つ優秀な神々が大勢集う場所へと、成長していくのである。






「おまつり?」

 『祭り』の意味を知らない大地はキョトンとしながら、首をかしげている。

「そう。しかも、七年に一度の、岩時祭りだ」

 久遠は大地に、優しい微笑みを浮かべながらこう言った。

「いよいよお前の婚約者に、会える時が来たぞ」

「コンニャクシャ?」

 弥生は内心、苦笑いしている。

 大地はまだ『婚約者』が何なのか、知るような年では無いというのに。

 久遠は普段から、大人に対するような話し方で大地と接しているようだ。


 だから大地はちょっと風変わりな、大人びた子になってしまうのである。






「あそぼうよ!」



 はじめて大地に声をかけてくれたのは、とても可愛らしい女の子だった。

 大きな目に憧れを宿す、さくらと名乗ったその少女こそ、まさに大地の『婚約者』その人だったのである。


 果たしてこれは、偶然だろうか?


「拝殿に先に着いた方が勝ちだからね! よーい、どん!」


「あ! ずるいぞ!」


 桃色の髪を揺らしながら、楽しそうに大地はさくらを追いかけている。


 大地にはさくらの他にも、親友と呼べるような素晴らしい友達が、あっという間にできた。


 それが久遠と弥生にとっては、一番嬉しい出来事だったかも知れない。


 この時間がいつまでも続くように、今度こそ守ろう。


 悩みも、苦しみも、悲しみも、逃れられないものではあるけれど。


 希望に満ちた明るい世界へ、大好きな者達が自から進んで行けるように。


 強くなれる時間を、平和でいられる毎日を、揺るがないものにしてみせよう。



 そのためなら、何だってしよう。



 久遠は再び自分に、そう誓った。