小さな大地は、久遠と弥生が自分の父と母であることを、長い間知らなかった。

 物心ついてから両親と一緒に過ごせた時間は、それほど短く、儚かった。

 しかし両親はいつだって、大地に優しかった。

 母は笑顔を絶やさず。

 父は注意深く。

 自分の事を何よりも、一番に考えてくれている。

 それを大地は、常に肌で感じていた。

 たくさんの愛情を与えられたおかげで、大地はすくすくと育つ事ができた。

 だが。両親の顔を覚えぬまま、小さな彼に闇が忍び寄ってしまった。

 言葉もろくに覚えぬうちに、大地は無理やり黒奇岩城へ。

 龍宮城に一旦侵入を果たした闇の一派は、容赦なく大地を連れ去ってゆく。

 何度も、何度も。







 ウラはクルエンに命じられた通り、大地少年を龍宮城から攫ってきた。

 誘拐はこれで6度目だと言う。

 年に一度、神と人が相対することが認められた時期には、天の原の龍宮城には大きな隙と混沌が生まれる。

 人間の世界で祭りが行われるタイミングが、あの子を攫う絶好の機会だ。

「あの木、何です?」

 ウラは攫ってきた小さな大地を肩に背負いながら、黒奇岩城の入り口に立つ、巨大な黒い木を指さした。

 後ろを歩くクルエンはウラの視線の先を目で追い、嫌悪を交えた表情を浮かべた。

「『桜』という木に似せた、隔離室だ。いい趣味だろう? 人間世界と繋がっている」

 どうやら大地という少年、心だけが別な場所にいるらしい。

 それを突き止めるため研究を重ねた結果、ある生き物の正体が浮かび上がった。

 桜という名の木だ。

 狂ったように花が咲くあの木が、大地の心を守っている。

 そこまでは突き止めた。

 だが、それ以上は謎である。

 桜は当初、天界には一本も存在しなかったからだ。

 似たような木を無理矢理生み出し、どうにか本物の桜と繋がるよう術を施した。

 大地少年の心に、深いダメージを与えるために。

「……また伽蛇(カシャ)様の企み、ですか。相変わらず気色の悪い女ですね」

「シッ。…………聞かれたら殺されるぞ」

「まだ小さな子供ですよ」

「子供は弱い。だから思い通りになって気持ちがいい、という考えなのだろう」

 城のようにも見えるその巨木に、小さな男の子を運び込む。

 彼は意識を失っており、黒龍側の神々の手によって、乱暴に透明な縄でグルグル巻きにされている。

「見慣れてしまうと、とても綺麗ですね。この子の桃色の髪…………」

 ウラは紫色の唇を開いた。

 美しいか、美しく無いかなど、もはや闇の神には関係無い事なのかも知れない。

 脅威を早めに潰す。

 それだけのために、この誘拐殺人は行われている。

「白龍のトップである久遠様の子を、伽蛇が無理やり殺そうとしている。桃螺の面々にばれたら今度こそ、我々もただでは済まないだろうな」

侵偃(シンエン)様がバックにいるのですから。仕方がありません」

「よくもまあ、悪趣味な拷問や実験を日々、繰り返し続けられるものだ。しかも黒奇岩城に毎日登校している子供たちの目の前でだ。いい加減、吐き気がしそうになる」

「…………今日もやるのですか? もう…………」

 逃げたい。

 裏切りたい。

「見せしめのためにな。未知なる生き物は、生かしてはおけない」

 クルエンと話していたウラの背後に、伽蛇がいきなり姿を現した。

 …………目が狂っている。

 ウラは思わず伽蛇に申し出た。

「伽蛇様。大地はまだ小さな子供に過ぎません。龍宮城へ返してあげては?」

「ハッ! この私を裏切るつもり?」

 伽蛇は馬鹿にしたように、ウラを見つめた。

「いえ、決してそのような…………」

「この子は本当に、手に負えない。こちらの力が効かない。影響力も。そのうちに、世界を滅ぼしてしまいかねないわ。今のうちに殺しておかないと」

 私怨で動いている割に、伽蛇は尤もな言い回しをする。

「まだ子供なのです! 殺すなど…………我々が罪に問われます」

「殺して何が悪いのよ。死んだら死んだでいいじゃない。久遠様は私を無視した。視界にも入れてくれなかったわ! しかも、あんな(・・・)人間の女と結婚した。子供まで作った。お父様も言っていた通りよ。我々を無視するものたちは全て、殺してしまったって構わない!」

 ウラには理解が及ばない。

 ただ判るのは、伽蛇は久遠への恨みと大地に対する恐怖が、膨らみ過ぎている。

「…………」

 無抵抗の子供が、憎しみの捌け口になってしまうとは。

 ターゲットにされた方は、たまったものではない。

 父と同様、大地は闇の神の姿を見ようともしない。

 まるで『お前らの言う事は聞かない』と、無言の抵抗をしているようである。

 それが一層伽蛇の勘に障り、拷問の力を強める原因にもなった。

「小さな大地をどのくらい、黒い木の中に閉じ込めるつもりなのですか」

「永遠によ。やっと捕まえたの。逃がすなんてつまらないじゃない!」

 狂っている。

 闇の神の娘とはいえ、こんな勝手が許されるわけが無い。

 だが、この時大地を守ったのは、時の神・爽が与えた鳳凰の加護『天螺(テンラ)』だった。


 その力は規則正しい螺旋を描き、紫色の光で大地を包み込みながら守ってくれた。


 時の神だけが持つ『天螺(テンラ)』は、特別な祝福。


 ────お前らの言いなりにはならない。


 まるで、そう言っているかのよう。


 闇の術がまるで効かない。


 大地は拷問に屈しない。


 さすがの闇の神も、この力には歯が立たなかった。

 大地に攻撃を与える全ての者に、『天螺(テンラ)』は同じ攻撃を返した。

「なぜ白龍の子が時の神の術式を…………我らにはとても対抗できません!」

 大地を守った『天螺(テンラ)』は、闇の神の手の者を次々と、これでもかというくらいにグルグル巻きにして、身動きが取れない様にしてくれた。

 完璧に大地は、『天螺(テンラ)』を使いこなしている。

 旋回した螺旋の文様がどんどん巨大化し、鋭利な刃物に変化して、抵抗する相手をバラバラに切り裂いてゆく。

 容赦無い。

 冷たい空気が時の神・爽の姿に一瞬だけ変化して、こう言った。


「これ以上大地を攫い、また黒奇岩城へ連れて行こうとしたらもう、許さない」


 6歳になる直前の大地は、久遠の天権(メグレズ)にも助けられ、黒奇岩城を無事脱出し、龍宮城へ戻って来た。

「大地!」

 久遠は涙を浮かべ、息子をぎゅっと抱きしめた。

 弥生は大地の頭を何度も撫で、肩を震わせている。


「良かった…………」


 温かい食事を与え、風呂に入らせ、そして尋ねようとするが。


 言葉にならない。


 今までどこに、いたのだろう。


「…………」


 誰に攫われたのだろう。


「…………」


 何をされたのだろう────


 何も聞けない。


 大地の気持ちを考えると。


 久遠と弥生は気が狂いそうになるくらい心配し、手を尽くして調べ回った。

 そして。どうやら大地が黒奇岩城内に攫われていた事を、突き止めた。

 大地はあらゆる意味で無数の魔の手、闇の神以外からも注目されていたようだ。

 恐ろしい事実が、次々と解き明かされる。

 拷問と隔離の、生々しい残虐行為が行われていた黒奇岩城。

 岩の神フツヌシが作ったその『難攻不落の城』は、黒龍側に誕生した頭脳明晰な子供たちが教育という名のもとに、悪しき洗脳を施されている場所でもある。

 誘拐のたびに大地は、黒奇岩城に通う生徒たちの目の前で、教師による拷問や辱めを受け、酷い目に遭わされ続けてきた。

 それ以外の時間は黒い巨木の中で孤独を与えられ、隔離されていた。

 殺される寸前まで見せしめのための拷問は、延々と続けられた。

 狡猾で容赦無い、侵偃(シンエン)伽蛇(カシャ)の指示によって。

 生徒たちは目の前で大地への拷問を見せられ、徹底的に恐怖を植え付けられる。

 逃げ出そうとすれば、お前たちもこうなるのだ、と教え込まれる。

 黒奇岩城の組織的な支配力は徹底しており、神々の子供達を恐怖に陥れた。







「視察団? 龍宮城からのか」

 クルエンが執務室のデスク越しに、じろりと配下の男ウラを睨みつける。

「そのようです。明日、10体の白龍側の神々がこちらに到着するとのこと」

「明日? 認めた覚えは、断じて無い」

 さっと顔色を変え、クルエンが声を荒げた。

「最強神・深名様のご命令です」

「…………!」

「あの方は、久遠様の言葉に弱いですから」

「久遠め! 何度息子を攫われても、懲りない奴だ。何重にも術を施しておけ」

「はっ」

 ウラが下がると、クルエンは小さなため息をついた。

「…………いつまで振り回されるのやら」

 もう懲り懲りである。

 誘拐も、弱者の殺戮も。

 空中をフワフワと、紫色の『龍の目』が飛んでいる。

 白龍の天璇と玉衡の力を込めてあるので、クルエンはこの『龍の目』を、どうする事もできなかった。

「潮時だろう。引き際を間違えては終わりだ」

 白龍・久遠は、息子の大地を守るためなら何だってする。

 段階を踏んで、久遠は紫色の龍の目をレベルアップさせ続けてきた。

 大地を守っている『龍の目』は、コンパクト型の円鏡にその姿を変えている。

 この鏡が全ての真実を全世界に暴くまで、そう時間はかからないだろう。

 いくら何でも、これ以上いじめを続けるわけにはいかない。

 全て追跡され、暴かれ、悪事を記憶に刻まれるのは、黒奇岩城の方だ。

 徐々に形勢は逆転し、黒奇岩城内部の様子がついに、白龍側にも明らかになった。

 ここまで、六年かかった。


 そして、その『時』がやって来た。




 大地と清名は、ようやく自由になったのである。