「本殿の結界が解かれました!……濁名かも知れません!」

 梅の言葉を聞いて、久遠はハッと我に返った。

 ときめいている場合ではない。

 濁名の様子を見に行かなければ。

 駆け出そうとした久遠だったが、清名に止められた。

『ダメよ久遠ちゃん! その姿じゃ殺されちゃうわ。アタシが濁名を見て来る!』

 清名は弥生の装束から外に出て、大鳥居を飛び越えて行った。

『ようく見ておれ。久遠よ』

 クスコのしわがれた声が、何故か弥生の喉から漏れた。

 先ほどの、鈴の音のような可愛らしい声では無い。

 やがて清名は戻って来て、拝殿の壁面に、濁名が神社に入り込む姿を映し出した。

 燃えるような赤い目、黒に近い赤髪、黒い装束姿の美しい女。

 濁名は人間の姿でふらふらと歩きながら、神社の中へと向かってくる。

「あれが濁名か!」

「ついに来た……」

「僕たちホントに戦うの?」

 霊獣達は恐れおののいている。

「戦わずとも良い」

 弥生と呼ばれた少女だけが、清名が映し出した濁名を見ても、冷静さを崩さない。

「おぬしらは、普段通りにしておれ」

「…………弥生?」

 濁名の存在など、弥生は全く意に介していないように見える。

「そのかわり、ワシが呼んだら応えるのじゃぞ」

「…………わかった」

 まぎれもなく弥生は、クスコの声で喋っている。

 彼女の声を聞くと霊獣達は落ち着きを取り戻し、やがてフッと姿を消した。

 涼やかな表情で、弥生は神社中央にある張り出し舞台の方へと歩いてゆく。

 久遠には彼女が、断頭台に向かう死刑囚のように見える。

 禍々しい濁名の気配を間近に感じた頃、筒女神の舞が始まった。


 ────何と艶やかな。


 人々を優しく包み込む。


 筒女神はこの世界に対して感謝を示し、微笑みながら舞台の上で回っている。


 右手には白い石。


 左手には黒い石。


 かちり!


 かちり!


 豊満な胸の前で、幾度となくその二つを打ち鳴らす。


 筒女神が廻る。


 腰から下げた白と黒の布が、彼女を中心にくるくると踊り出す。


 まるで白と黒のドラゴンが、追いかけ合っているようである。


 先ほど久遠を抱きながら、無邪気に笑っていた少女はどこに消えたのだろう。


 張り詰めた空気と得体の知れない力に、畏怖の念すら覚える。


 神々しい存在感に魅入られる。


 人間達は、祭壇の上で舞う筒女神から目を離せない。


 応援の力を受け止め、微笑みを返し、筒女神は人々の心と一体化している。


 彼女の視野は広い。


 濁名の存在などちっぽけで、彼女にとってみれば有象無象の一つに過ぎない。


 筒女神は両手を天に掲げる。


 ────天権(メグレズ)


 白猫姿の久遠は何も出来ないまま、この光景をただ見守ってしまった。


 獅子アイトが筒女神の中に降臨し、『天璇(メラク)』の守りへと変わる。


 筒女神の器になった少女との、強い絆で結ばれたことによって発生した力。


 まばゆい閃光が走り、白く透き通る勾玉形のバリアが、岩時神社全体を包み込む。


「どうしてだ……?」


 岩時の霊獣達の力を、自分は軽く見積もっていたのだろうか。

 獅子アイトからは今まで、こんなに強い力を感じなかった。

 久遠は不思議に思う。

 濁名への攻撃などでは無くて、これはあくまでも筒女神の舞なのだ。

『イタイ! イタイッ!』

 なのに。黒龍化した報いなのか、濁名の体が激しく蝕まれてゆく。

 もしかしたら少女の体も、痛むのでは?

 霊獣を体に入れるなど!

 久遠は気が気ではない。


『おぬしらはまず、器を守り抜くんじゃぞ』


 ────まさか。


 久遠はぞっとした。


 守らなければ、筒女神の影響力に耐えられず、器が壊れてしまうのでは無いか?

 ならば何故、クスコはあえて少女の体を器として選んだのだろう。

 最強の神が人の体に宿るなど……どう考えても無謀だろうに!

 久遠はクスコに言われた、もう一つの言葉を思い出した。


『七支刀はワシが預かっちゃる』


 ────七支刀だ。


 あれを抜いて、彼女を守ろう。

 濁名を討伐せよと言い渡されたのは、久遠なのだ。

 自分が濁名と戦わなくては!

 ああ。何故今、白猫の姿なのだ!

 久遠は生まれて初めて、自制できないほどの焦りを感じた。

『やれやれ。久遠よ。おぬしも心の鍛錬が足りぬのう。人は、それほど弱くないぞ』

「…………」

『人を甘く見ない方が良い』

 黒だったはずの弥生の瞳は、青色にゆらゆらと揺蕩いながら久遠に微笑みかけている。

「甘く見てなど!」

 いない、と言いたかった。

 だが久遠はあまりにも、人間という生き物の事を知らなさ過ぎた。

 人は明らかに、神々よりも力が弱い。

 だから、すぐに死ぬ。

 久遠の父と母は死んだ。

 清名も。

 汚い罠にかかれば、神々のトップである白龍ですら死んでしまう。

 筒女神から目を逸らすと、舞台の前にいる背の高い、黒袴姿の男が目に飛び込む。

 鋭い眼光を持つ彼は岩時の者では無く、人では無く、かといって神でも無かった。

 久遠は彼に対して何故か懐かしいような、切ないような、不思議な感覚を抱いた。

 もしかすると彼ならば、七支刀を抜いてくれるかも知れない。

 久遠は彼に訴えかけた。

『にゃーにゃー(こっちに来てくれ)!』

「どうした?」

 こちらの必死な様子を見て、男は自分の後について来てくれた。

 息を切らしながら久遠は、しめ縄で結界が張られた禁足地に彼を案内した。

 固い土の中に、あの深名から授かった刀剣が真っ直ぐに突き刺さっている。

 この姿では刀を抜く事が出来ないし、濁名と戦う事も出来ない。

 今の自分は非力だ。

「これは…………」

 男は驚き、剣身の脇に六本の剣の枝が生えた純白の刀剣を見つめている。

 抜けと言うのか。これを。

 久遠を見て、彼は渾身の力を振り絞り、七支刀を両手で地面から引き抜いた。


 ────その刀剣を、筒女神へ。


 どうやら伝わりそうでホッとした瞬間、恐ろしい現象が起こった。


 バチバチッ!


 久遠の身も、心も、七支刀の中に取り込まれてしまったのである。


「わっ!!」


 男はそれに気づかない。


 だか彼は久遠の望み通り、筒女神に近寄って、素早い仕草で七支刀を手渡した。


「お。こりゃ便利じゃのう!」


 七支刀が筒女神の手に渡った途端、霊獣達の意識がその中へ入り込んだ。






 一方、久遠も。

 辺り一面、真っ白な場所へ移動した。

 岩時の霊獣達が、ざわつきながら久遠の近辺を右往左往している。

 もしかして…………

 ここは七支刀の中なのか?

「ね、ねえ、白猫君、君も来たの? 新入りの霊獣? そう? そうなんだよね?」

 狐のウバキが落ち着きのない様子で、久遠に声をかけてきた。

「俺たちは呼ばれるらしいいいいのです。でもですねでもですねでもですね、普段通りでいいいいいんです。いつものようにしていれば、それでいいんだだだだだ」

 緊張しているのかウバキの口調は、これ以上ないくらい上ずっている。

「少し落ち着きなさい。騒々しい」

 ウバキを一括した梅は、久遠に苦笑いを見せた。

「ようこそ、白猫さん」

「あー! お前はあのエロい猫!」

 狛犬のリョクが梅の背後から、久遠を睨みつけている。

「…………」

 カオスだ。

 剣の中に入ったという事は、自分も筒女神に召喚されてしまうのだろうか?

 成り行きを見守るしかない。

 壁面に開いた穴から、筒女神が次の霊獣を召喚する声が聞こえてくる。

「リョク」

 ヒィッ!

 狛犬リョクは、縮み上がった。

「お呼びですよ。リョクさん」

 梅はリョクに声をかけた。

 ヒィッッ!

 勘弁してくださいっ!!

 僕はまだ若いんです!!!

 戦いの経験、無いんです!!!!

 弱いんです!!!!!

 死ぬのやなんです!!!!!

 ブルブルブル…………

「情けないな、全く」

 久遠は思わず、リョクに声をかけてしまった。

 あれ。

「ニャー」じゃない。

 刀剣の中ならば、普通に声が出せるのか?

「お前には絶対、彼女を渡さない」

「なにいっ?」

 久遠の言葉がリョクに通じたようだ。

「それでも神社を守る狛犬か?」

 リョクは赤くなって、プンプン怒り出した。

「うるさい! エロ猫! 今行くところだっ!」

 飛刀を構え、リョクは勢いよく七支刀の穴から飛び出していった。

 爆音と共に。

「やれば出来るじゃないか」

 彼は七つの宝玉に姿を変え、七支刀の柄のくぼみにピッタリとはまってゆく。

 次に、梅が筒女神に呼ばれた。

 彼女はさすがというべきか、すぐに黄金色に輝く鳳凰に変化し、炎を吐き出した。

 炎が濁名を包み込む。


 ────ギャーッ!!!


 濁名を黒龍姿に変化させた梅、はっきり言って只者ではない。

 霊獣というよりは既に、神の域に達している。

 年の功だな。

 久遠は妙に納得した。

 筒女神は玉衡(アリオト)で慈愛の心と慈悲の心を現し、七支刀に念じている。


「キヌリ」


「……お呼びだ」

 久遠は牡鹿のキヌリに背後から声をかけた。

 だが、ビクビクしている彼は聞こえないふりをしている。

「その矢を放つところを見せてくれ」

「…………矢を?」

「ああ。別に濁名に向けなくたっていい」

 自分や、大好きな人のために、放ってくれ。

 久遠の言葉に、キヌリは頷く。

「それなら出来る」

 キヌリは七支刀から外に現れ、弓矢を構え、無数の光の矢を一斉に放った。


 ────ギャーッ!!!


 矢は恐ろしいほど正確に、全て濁名の心臓に命中した。



「ウバキ」


「呼ばれたよ?」

 久遠に声をかけられ、ウバキは首をブンブンと横に振っている。

「おおおおおお恐ろしいです……恐ろしいです。逃げてもいいいいいいです?」

「逃げたらきっと後悔する。その杖で、私に光を見せてくれないか」

「見せるだけで良いですか?」

「もちろん」

 久遠の言葉にウバキはホッとした様子で、七支刀の中から出て行った。

 ウバキが天璣(フェクダ)を杖から放つと、大きな光が濁名の視界を奪う。


「カナレ」


 勇気ある白蛇カナレは、久遠の後押しを必要としなかった。

「今行きます」

 筒女神に呼ばれるとすぐ飛び出していき、彼女は白い杖を濁名に向けた。


揺光(アルカイド)!」


 濁名の魂が浄化され、癒しの力と良い香りがあたりを包み、心が満たされてゆく。


 あれ。


 ほとんど、何も出来なかった。



「ま、いいか…………」



 久遠は白猫姿のまま、ぐったりとその場にうずくまった。