「弥生…………弥生」
声を聞いて、弥生は目を覚ました。
ここは畳の上。
自分は布団の中にいる。
誰かが運んでくれたらしい。
感覚が研ぎ澄まされており、本殿の白い天井がいつもとは違い、不気味に感じる。
少しでも何かに触れられたら鳥肌が立つような、ざわつく感覚。
すぐ横を見ると、梅が心配そうに自分を見つめている。
「梅ちゃん…………私」
「高熱を出して、うなされていました。夢を見ていたようですね」
「うん。すごく大事な夢だった気がするの。でも、忘れてしまったわ」
どんな夢を見たのかを思い出せない。
「……そうですか」
だが、心の奥深くでその『何か』が自分を揺さぶり、なかなか離してくれない。
熱かった。
とても苦しかった。
もう二度と囚われたくない。
知ってしまったから。
自分の醜さを。
「うっ…………」
弥生の目から涙が溢れる。
次から、次から。
一旦流れ出すと、もう止まらない。
寂しい。
苦しい。
悲しい。
憎い。
「梅ちゃん。私、ずっと見ないふりをしていたの。だから罰が当たったのだわ」
自分が憎い。
どうする事も出来ない自分が、情けなくてたまらない。
「私はあなたのご両親の祈りを聞いて、この地へ参りました。逃げないならば、あなたが自害だけはしないように、ご自分達のかわりに見守って欲しかったのでしょう」
梅は優しい手つきで、弥生の髪をそっと撫でながらこう言った。
「弥生。私は人間が大好きです。特にあなたが。強くなりたい、強くあり続けたいと頑張る人に、私は憧れています。だから私は、今のあなたを応援しています」
梅の言葉を聞くと、弥生の目からはますます涙が溢れ出た。
憧れ?
梅が人間に?
…………逆なのでは?
「梅ちゃん、私、本当に、そんな人になれるかしら」
「もう、なっています。あなたは良い意味でも悪い意味でも、変わることは無いと、私には思えます」
いろんな出会いや経験を経て、弥生は、自身の人格を身につけた。
揺るがない強さも。
「私、もっと茜さんと、ちゃんと話がしたかった」
弥生はしゃくりあげながら、やっとこれだけを言葉にした。
「…………」
梅は弥生の頭を撫で、彼女をそっと抱きしめた。
気持ちを伝えてもきっと、上手く伝わらないだろう。
そう思い、弥生は勝手に茜との交流を諦めていた。
卑怯だったかも知れない。
逃げていただけだったから。
茜は一度だけ、弥生に笑いかけてくれたことがあるのだ。
とっておきのお菓子をあげた時。
『美味しい!』
と。無邪気に彼女が笑ってくれた時、弥生は本当に嬉しかった。
もっともっと、色々な話が出来たなら良かったのに。
他愛のない話を。
何に興味があって、何が嫌いだったのか。
どうして意地悪ばかりしたのか。
聞きたいことは山ほどあったのに、もう永遠に話せない。
彼女は死んでしまったのだから。
「私はいつも思ってる。生まれて来れて良かった。生きていて良かった、って」
こんな時でも、感謝してる。
有難いと思っている。
生きている喜びを、嬉しさを、心から、かみしめている。
茜は死んでしまったのに。
弥生はハッとした。
「────梅ちゃん、今何時?」
「朝の六時です」
「……大変! いつもより遅いわ。お掃除しなくちゃ!」
梅は止めようと、弥生の腕を掴んだ。
「熱が下がったばかりです。あと一日は眠っていた方が…………」
「もう動けるわ! 大丈夫よ」
弥生は起き上がり、いつもの着物に着替え出した。
「……仕方の無い方ですね」
鳳凰・梅は、自分の父と母が遺した言葉を思い出す。
彼らは人間世界に憧れ、高天原と人間世界を繋ぐ仕事を喜んで引き受けていた。
梅が岩時の地を選んで弥生を探し当てたのは、偶然ではない。
病床の母から直接、亡き父が書いたある本を託され、こう頼まれたのである。
筒女神の依り代は、この本に書かれている『岩時の地』に必ずいると。
出来るなら依り代になる人間を、神事が済むまで守って欲しいと。
もし彼女を守れなければ、人間の世界は全て無に帰してしまう。
二度と蘇ることは叶わない。
それは神々にとってもあまりに悲しく、儚いことだから。
こと切れる前に息を吸い、母はたどたとしい口調で、梅に語って聞かせてくれた。
人間の世界、それも岩時神社を守る、時刈一族の血が混じった弥生の父、権宮司から祈りの声が届いたのも、ちょうどそのころ。
そして梅は、弥生を見つけた。
父が書いた本が、本物の筒女神をこの地に導くことになるかも知れない。
叶うならば、ひと目見たい。
人に宿った、最強の神を。
本殿から出た弥生と梅は、驚いた。
神社の中は隅から隅まで、綺麗に掃き清められていたからだ。
「おっはよ! やよちゃん、梅さん」
「とっくに掃除は終わったぜ」
「もう体は大丈夫なの?」
鴉のツバサ、牡鹿のキヌリ、狐のウバキが弥生に声をかける。
「うん。すっかり元気になったよ! ねえ、誰かお掃除してくれたの?」
霊獣達はニヤリと笑った。
「僕たちが掃除したんだ。弥生を休ませてあげようと思ってさ。やってみると結構楽しいもんだね!」
「嬉しい。ありがとう……!」
一緒に神社を磨いてくれる存在がいることを心強く思い、弥生は力が湧いて来る。
「………あれ? アイトさんと、リョクさんは?」
獅子アイトと狛犬リョクの姿は、どこにも見当たら無い。
「斎主の岩戸の方へ、行ったみたいだぜ」
「イワイヌシのイワト?」
「霊水があったとこのすぐ近くに、開かずの扉があっただろ? あそこの事。リョクがさ、中から匂いと物音がしたって言うから、様子を見に行ってるんだ」
「ねえ、梅ちゃん。私も後で、行ってみてもいい?」
「…………ええ」
梅は頷いた。
弥生を止めても仕方が無いと、判断したからである。
あの場所で白蛇カナレが黒龍を匿っている事を、梅はとっくに知っていた。
だがしばらくの間は、見て見ぬふりをしようと決めている。
異種族間で恋に落ちる話は、神々の間でも良く耳にする。
仮にその黒龍が、白龍神が守る岩時の地に意図的に侵入したならば。
人間達に悪さをしたいなら、梅も黙ってはいない。
だが。今のところそうでは無いようだ。
逆に、この地を守るはずの白龍神・濁名は、心が腐りきっている。
本来この地を守るべき立場であるにも関わらず、人間を食べ始めているのだから。
高天原のルールなど、あって無いようなものだ。
ならばカナレの行動を今は黙認しておこう、と梅は判断したのである。
彼女が黒龍をどうしたいのか、直接聞く良い機会が訪れるかも知れない。
梅は遠い昔から語り継がれる、鳳凰の発祥ともいえる伝説を思い出していた。
鳳凰の男と、人間の女が、恋に落ちた物語。
彼らは誰にも明かさないまま結婚し、一人のキメラをこの地に誕生させる。
生を受けたキメラはやがて大人になり、『時刈』と名乗るようになった。
人間でありながら自身の『時』を操る術に長けていた時刈一族は、それまでこの地を守っていた海玉《ウミダマ》と名乗る岩の神と、信頼関係を築いていく。
時刈一族は大好きな海玉と、自身に授かった力を忘れないため、この地を『岩時』と名付け、大切に守り続けた。
「もう誰も生贄にはしません。時刈一族は過去を決して、忘れませんので」
梅は黒くて古い、あちこち剥がれた分厚い本を、弥生に渡した。
表紙には『岩時神楽』と書かれている。
「この本に書かれている通り、岩時祭りで行われる舞台の上で、演じて下さい。弥生の中に、筒女神が降臨されます」
演じる?
「私が…………神楽殿で巫女舞を演じるのと、同じように?」
「はい。あなたの身に宿すのは、神々の中で最高位にあたる筒女神。そのお体に岩時の地と、岩時の人々を守るための力を、一瞬だけ宿していただきます」
梅は弥生に頼んだ。
そして岩時本祭りの最中に、濁名と相対して下さい、と。
あなたの意識がその時にあるかどうかは、想像出来ませんが。
「禁を破った濁名の事は、あなたに宿った筒女神が裁くでしょう」
「筒女神が白龍を裁く…………?」
途方も無い話だ。
弥生は震え出し、正直に言えば逃げ出したくなった。
「筒女神は、真実を歪める存在を決して許しません。なので、自らを律し、向き合いながら戦える人間しか、依り代に選んだりはしないでしょう」
「…………」
「ところで。神聖な『霊水』は、あなたを『気枯れ』にしましたか?」
「…………いいえ」
「そのようですね。驚きました。霊水を飲んで『気枯れ』にならない人間は、ほとんどいないそうですから…………」
梅は弥生の首筋に顔を近づけ、香りを楽しむ仕草をした。
「…………梅ちゃん?」
弥生は首元に梅の吐息がかかり、くすぐったい気持ちになって声を上げた。
「ど…………どうしたの?」
梅に血でも吸われそうなざわつきを覚え、弥生は少し後ずさった。
はっと我に返り、梅は申し訳無さそうに顔を赤らめている。
「あ……失礼致しました。あなたは極上の『光る魂』をお持ちなので、つい香りを」
「…………え」
「あなたの魂は、神をも惑わす強さをお持ちです。弥生」
声を聞いて、弥生は目を覚ました。
ここは畳の上。
自分は布団の中にいる。
誰かが運んでくれたらしい。
感覚が研ぎ澄まされており、本殿の白い天井がいつもとは違い、不気味に感じる。
少しでも何かに触れられたら鳥肌が立つような、ざわつく感覚。
すぐ横を見ると、梅が心配そうに自分を見つめている。
「梅ちゃん…………私」
「高熱を出して、うなされていました。夢を見ていたようですね」
「うん。すごく大事な夢だった気がするの。でも、忘れてしまったわ」
どんな夢を見たのかを思い出せない。
「……そうですか」
だが、心の奥深くでその『何か』が自分を揺さぶり、なかなか離してくれない。
熱かった。
とても苦しかった。
もう二度と囚われたくない。
知ってしまったから。
自分の醜さを。
「うっ…………」
弥生の目から涙が溢れる。
次から、次から。
一旦流れ出すと、もう止まらない。
寂しい。
苦しい。
悲しい。
憎い。
「梅ちゃん。私、ずっと見ないふりをしていたの。だから罰が当たったのだわ」
自分が憎い。
どうする事も出来ない自分が、情けなくてたまらない。
「私はあなたのご両親の祈りを聞いて、この地へ参りました。逃げないならば、あなたが自害だけはしないように、ご自分達のかわりに見守って欲しかったのでしょう」
梅は優しい手つきで、弥生の髪をそっと撫でながらこう言った。
「弥生。私は人間が大好きです。特にあなたが。強くなりたい、強くあり続けたいと頑張る人に、私は憧れています。だから私は、今のあなたを応援しています」
梅の言葉を聞くと、弥生の目からはますます涙が溢れ出た。
憧れ?
梅が人間に?
…………逆なのでは?
「梅ちゃん、私、本当に、そんな人になれるかしら」
「もう、なっています。あなたは良い意味でも悪い意味でも、変わることは無いと、私には思えます」
いろんな出会いや経験を経て、弥生は、自身の人格を身につけた。
揺るがない強さも。
「私、もっと茜さんと、ちゃんと話がしたかった」
弥生はしゃくりあげながら、やっとこれだけを言葉にした。
「…………」
梅は弥生の頭を撫で、彼女をそっと抱きしめた。
気持ちを伝えてもきっと、上手く伝わらないだろう。
そう思い、弥生は勝手に茜との交流を諦めていた。
卑怯だったかも知れない。
逃げていただけだったから。
茜は一度だけ、弥生に笑いかけてくれたことがあるのだ。
とっておきのお菓子をあげた時。
『美味しい!』
と。無邪気に彼女が笑ってくれた時、弥生は本当に嬉しかった。
もっともっと、色々な話が出来たなら良かったのに。
他愛のない話を。
何に興味があって、何が嫌いだったのか。
どうして意地悪ばかりしたのか。
聞きたいことは山ほどあったのに、もう永遠に話せない。
彼女は死んでしまったのだから。
「私はいつも思ってる。生まれて来れて良かった。生きていて良かった、って」
こんな時でも、感謝してる。
有難いと思っている。
生きている喜びを、嬉しさを、心から、かみしめている。
茜は死んでしまったのに。
弥生はハッとした。
「────梅ちゃん、今何時?」
「朝の六時です」
「……大変! いつもより遅いわ。お掃除しなくちゃ!」
梅は止めようと、弥生の腕を掴んだ。
「熱が下がったばかりです。あと一日は眠っていた方が…………」
「もう動けるわ! 大丈夫よ」
弥生は起き上がり、いつもの着物に着替え出した。
「……仕方の無い方ですね」
鳳凰・梅は、自分の父と母が遺した言葉を思い出す。
彼らは人間世界に憧れ、高天原と人間世界を繋ぐ仕事を喜んで引き受けていた。
梅が岩時の地を選んで弥生を探し当てたのは、偶然ではない。
病床の母から直接、亡き父が書いたある本を託され、こう頼まれたのである。
筒女神の依り代は、この本に書かれている『岩時の地』に必ずいると。
出来るなら依り代になる人間を、神事が済むまで守って欲しいと。
もし彼女を守れなければ、人間の世界は全て無に帰してしまう。
二度と蘇ることは叶わない。
それは神々にとってもあまりに悲しく、儚いことだから。
こと切れる前に息を吸い、母はたどたとしい口調で、梅に語って聞かせてくれた。
人間の世界、それも岩時神社を守る、時刈一族の血が混じった弥生の父、権宮司から祈りの声が届いたのも、ちょうどそのころ。
そして梅は、弥生を見つけた。
父が書いた本が、本物の筒女神をこの地に導くことになるかも知れない。
叶うならば、ひと目見たい。
人に宿った、最強の神を。
本殿から出た弥生と梅は、驚いた。
神社の中は隅から隅まで、綺麗に掃き清められていたからだ。
「おっはよ! やよちゃん、梅さん」
「とっくに掃除は終わったぜ」
「もう体は大丈夫なの?」
鴉のツバサ、牡鹿のキヌリ、狐のウバキが弥生に声をかける。
「うん。すっかり元気になったよ! ねえ、誰かお掃除してくれたの?」
霊獣達はニヤリと笑った。
「僕たちが掃除したんだ。弥生を休ませてあげようと思ってさ。やってみると結構楽しいもんだね!」
「嬉しい。ありがとう……!」
一緒に神社を磨いてくれる存在がいることを心強く思い、弥生は力が湧いて来る。
「………あれ? アイトさんと、リョクさんは?」
獅子アイトと狛犬リョクの姿は、どこにも見当たら無い。
「斎主の岩戸の方へ、行ったみたいだぜ」
「イワイヌシのイワト?」
「霊水があったとこのすぐ近くに、開かずの扉があっただろ? あそこの事。リョクがさ、中から匂いと物音がしたって言うから、様子を見に行ってるんだ」
「ねえ、梅ちゃん。私も後で、行ってみてもいい?」
「…………ええ」
梅は頷いた。
弥生を止めても仕方が無いと、判断したからである。
あの場所で白蛇カナレが黒龍を匿っている事を、梅はとっくに知っていた。
だがしばらくの間は、見て見ぬふりをしようと決めている。
異種族間で恋に落ちる話は、神々の間でも良く耳にする。
仮にその黒龍が、白龍神が守る岩時の地に意図的に侵入したならば。
人間達に悪さをしたいなら、梅も黙ってはいない。
だが。今のところそうでは無いようだ。
逆に、この地を守るはずの白龍神・濁名は、心が腐りきっている。
本来この地を守るべき立場であるにも関わらず、人間を食べ始めているのだから。
高天原のルールなど、あって無いようなものだ。
ならばカナレの行動を今は黙認しておこう、と梅は判断したのである。
彼女が黒龍をどうしたいのか、直接聞く良い機会が訪れるかも知れない。
梅は遠い昔から語り継がれる、鳳凰の発祥ともいえる伝説を思い出していた。
鳳凰の男と、人間の女が、恋に落ちた物語。
彼らは誰にも明かさないまま結婚し、一人のキメラをこの地に誕生させる。
生を受けたキメラはやがて大人になり、『時刈』と名乗るようになった。
人間でありながら自身の『時』を操る術に長けていた時刈一族は、それまでこの地を守っていた海玉《ウミダマ》と名乗る岩の神と、信頼関係を築いていく。
時刈一族は大好きな海玉と、自身に授かった力を忘れないため、この地を『岩時』と名付け、大切に守り続けた。
「もう誰も生贄にはしません。時刈一族は過去を決して、忘れませんので」
梅は黒くて古い、あちこち剥がれた分厚い本を、弥生に渡した。
表紙には『岩時神楽』と書かれている。
「この本に書かれている通り、岩時祭りで行われる舞台の上で、演じて下さい。弥生の中に、筒女神が降臨されます」
演じる?
「私が…………神楽殿で巫女舞を演じるのと、同じように?」
「はい。あなたの身に宿すのは、神々の中で最高位にあたる筒女神。そのお体に岩時の地と、岩時の人々を守るための力を、一瞬だけ宿していただきます」
梅は弥生に頼んだ。
そして岩時本祭りの最中に、濁名と相対して下さい、と。
あなたの意識がその時にあるかどうかは、想像出来ませんが。
「禁を破った濁名の事は、あなたに宿った筒女神が裁くでしょう」
「筒女神が白龍を裁く…………?」
途方も無い話だ。
弥生は震え出し、正直に言えば逃げ出したくなった。
「筒女神は、真実を歪める存在を決して許しません。なので、自らを律し、向き合いながら戦える人間しか、依り代に選んだりはしないでしょう」
「…………」
「ところで。神聖な『霊水』は、あなたを『気枯れ』にしましたか?」
「…………いいえ」
「そのようですね。驚きました。霊水を飲んで『気枯れ』にならない人間は、ほとんどいないそうですから…………」
梅は弥生の首筋に顔を近づけ、香りを楽しむ仕草をした。
「…………梅ちゃん?」
弥生は首元に梅の吐息がかかり、くすぐったい気持ちになって声を上げた。
「ど…………どうしたの?」
梅に血でも吸われそうなざわつきを覚え、弥生は少し後ずさった。
はっと我に返り、梅は申し訳無さそうに顔を赤らめている。
「あ……失礼致しました。あなたは極上の『光る魂』をお持ちなので、つい香りを」
「…………え」
「あなたの魂は、神をも惑わす強さをお持ちです。弥生」