弥生と梅は、本殿の中で向かい合っている。

 詳しい自己紹介も無いまま、梅はいきなり切り出した。

「我々鳳凰の一族は、最強神を追いかける事が出来るのです」

「さいきょうしん……」

「一番強い神様──筒女神(つつめがみ)さまの事です」

「筒女神なら知ってます! ……あ、ごめんなさい梅さん! 存じております」

 梅はぴんと背筋を伸ばし、両手を膝の上で合わせ、正座したまま微笑んだ。

 弥生は古い書物を読むのが好きで、岩時の地に伝わる物語にも触れたことがある。

 筒女神に関する記述は所々難解だったが、その名は馴染み深かった。

「堅苦しい言葉遣いで話していただく必要はありません。私の事は『梅ちゃん』とお呼びください。弥生様」

 梅ちゃん?

 威厳のあるこの女性に、この呼び名は果たして相応しいのだろうか。

 着物姿の梅は若くて美しいが、その堂々とした風格が老齢であることを疑わせる。

 だが親しみが湧く『梅ちゃん』という呼び方が、弥生は大変気に入った。

 そのうち呼び慣れるはず。

「わかったわ、梅ちゃん。では私の事は、弥生と呼び捨てでお願いします!」

「承知しました。弥生」

 気枯れの儀式が始まったばかりの頃に、梅がこの世界に来てくれたことが、弥生と久遠を思いがけない幸運へと導いた。

 梅は弥生と自分の間に置かれた、白くて小さな盃を手で指し示す。

「この盃をご覧ください。何に見えますか?」

「ええと。これは大切な『岩時の神体』ですよね?」

「そうでしょうか」

「……そう教えられてきましたけど」

 え?

 違うの?

 頭の中をハテナマークがよぎる弥生。

 梅は、大きく息を吸った。

 そして喉の奥から、黄金に輝く炎を一気に吐き出した。


 ゴウッ!!!


 一瞬にして炎に燃やされ、盃は灰となって消えた。


「梅ちゃん!」


 あっと言う間の出来事。

 ご神体が!

 あああああーー-!

 何てことしてくれちゃってんの?!

 てか盃って、こんな簡単に燃えちゃうものなの?!

 灰になった盃と梅を交互に見て、パニックに陥った弥生はモゴモゴと口を開く。


「どどどどど、どゆ事?!」


 梅の真意がわからない。


「今ご覧になっていた盃は、大切な『ご神体』では無かったという事です」

 …………。

 弥生は脳内で、梅の言葉を一生懸命反芻した。

「──え? でも! 私はこの盃で、霊水を毎日一リットル飲んでいたのよ?!」

「…………論点がズレています。量の問題ではございません」

「この盃で岩時の霊水を毎日飲めば、気枯れの体になれると言われたのよ?!」

 驚きのあまり弥生は、敬語で話す事をすっかり忘れている。

「その話はひとまず置いておきます。そもそも岩時の神体とは、鳳凰の炎ごときで燃えるような『器』ではございません」

「え。それじゃ…………」

「遠い昔には今の盃も、ご神体にふさわしい器だったのかも知れませんが」

 でも今は?

「灰になりました。これは、岩時に住むものたちに、さほど『大切』にはされていなかった、という事を意味します」

 大切にされていなかった『器』。

 だから燃えて無くなった。

 弥生は、自分の体が激しく震え出すのを、感じずにはいられなかった。

 心もいつしか、震え始める。

 恐ろし過ぎて今まで意識下に置く事が出来なかった、抗えない何か。

 それらが突然目の前に姿を現し、何もかもをさらけ出したかのような、嫌悪感。

 ……心が追い付かない。

 儚くて脆い、理不尽な現実。

 弥生は急に、生贄になって死んでいった茜の事を思い出した。

 意地悪だった茜。

 何もかもを見下し、蔑んで、嘲笑っていた茜。

 弥生が生贄騒ぎを知った時には既に、彼女は亡くなった後だった。

 どんな人間であれ生贄など、捧げてはならなかったのに。

 梅が伝えたいことが、自分の予測通りとするならば…………

 真実とは一体、何なのだろう。

「あなたの家に伝わる盃を、今、ご用意いただけますか?」

 ────!

 弥生は言われた通り、本殿の真ん中に、時刈一族に伝わる盃を用意した。

 ご神体だった盃とは似ても似つかない、装飾も柄も施されていない、純白の盃。

 梅は先ほどと同じように息を吸い、喉の奥から黄金の炎を吐き出した。


 ゴウッ!!!


 盃は燃えなかった。

 炎の勢いにも負けず、微動だにしない。

 それどころか、燦然と輝きを放ち、今までより一層白さを増している。

「どうやらこちらが現時点では、本物のご神体…………岩時の『器』のようですね」

「ねえ、どういう事? 私にはさっぱりわからないわ…………」

「ご覧の通りです。私が吐く炎ごときで焼かれる『器』など、神体でも、何でもございません。神の御心が宿った瞬間、砕け散って消えてしまいます」

「…………」

「岩時の地に住む生き物は長きにわたって自分を甘やかし、心を偽り続けてきたのでしょう。その結果、大切にすべきものを全て、はき違えてしまったのです」

 真実を隠し歴史を塗り替え。

 神器を偽物へと変え。

 ハレとケを捻じ曲げ。

 妄信を悪用した。

 その結果…………

 邪心を抱く神に狙われた。

「弥生。飲んでいた霊水を、こちらへ持って来て下さい」

「…………ええ」

 弥生は言われるがまま、五百ミリリットル入りのペットボトルを二本持って来た。

 ラベルには『岩時の霊水』と書いてある。

「何なんですか?! これは!」

「何って、岩時の霊水です」

 梅は口をぽかんと開けた。

 嘘でしょ?

 と顔に書いてある。

「人間の手で加工されているようにお見受けしますが…………」

 まさかこれを毎日、二本飲んでいたというのだろうか、この娘は。

「ええ。とっても美味しいんですよ!」

「飲んでみても?」

「もちろん! どうぞ」

 弥生は嬉しそうに頷き、梅が持つ盃にペットボトルの水を注ぎ入れた。

 盃に注いでもらった水を口に含んだ瞬間、梅は霧吹きのごとく吹き出した。


 ブーッ!!!


「うっわ! きったね!」

 弥生は梅を激しくとがめた。

「ひどいよ梅ちゃん! 吐き出す事無いじゃん! 大切な岩時の霊水なのにー!」

「は?!」

 梅はプチン! と切れた。

 我慢の限界が来たようである。

「これのどこが岩時の霊水ですか! あなた方は本物の馬鹿ですか?! 弥生!」

「は、はいっ?!」

「ちょっとこっちに来なさいっ!」

 梅は弥生の手を引き、勢いよく本殿から飛び出した。

 外にいた霊獣達は一体何事かと、二人の様子を見つめている。

「何やってんだ? 弥生と梅さん」

「…………さあ。ついて行ってみます?」

「そうだな」

 獅子アイトと狛犬リョクは、梅と弥生の後をつけ始めた。

 するとそれを見た他の霊獣達も、彼らの後にわらわらとついていく。

「何が始まったのですか?」

 牡鹿のキヌリが尋ねると、獅子アイトは首を傾げる。

「さあ。わからねぇ」

「ただ事では無さそうな雰囲気ですね?」

 狐のウバキが言うと、狛犬リョクは頷いた。

「緊迫感あるよね…………」

 興味が湧いただけなのだが、彼女らの雰囲気に吸い寄せられそうになる。

 暇だった霊獣達は、彼女らを最後まで尾行した。

 梅と弥生は神社の大鳥居をくぐり、参道を降りて岩時山のふもとまで来ている。

 街中に入る道から外れ、梅は森の奥へ続く細長い道を進んで行き、歩みを止めた。

「この水です」

 切り立った岩の間から、可愛らしい湧水が小さな滝のように染み出している。

「さあ。お飲みください」

 弥生はその湧き水を、持っていた時刈一族に伝わる盃に入れて飲んだ。

 水はびっくりするくらい澄んでおり、それでいてほんのり温かい。

「ちょっとだけ甘くて…………すごく美味しい!」

 体がほかほかと、温かくなる。

 心も。

 これが、本物の岩時の霊水?

 この味は一体…………?

 弥生は、隠れている霊獣達に声をかけた。

「みんな! こっちに来て! この水、美味しいから飲んでみてよ!」

 清めた両手を器の形にし、湧き水を直接飲んだ梅は目を丸くした。

「本当に…………甘くて清らか。これぞ『霊水』ですね」

 花開くような笑顔へと変わり、梅は弥生に話しかけた。

「ふふふ。とっくに、ご存知だったのですね。後をつけられていたこと」

「そりゃね。みんなの声、ヒソヒソヒソヒソ騒がしいんだもん!」

 目だけでは無く、弥生は耳まで良い。

 霊獣達の声をきちんと聴き分けている。

 やはり筒女神の依り代は、彼女を置いて他にはいない。

「皆さん、心配いりません。どうぞこの水をお飲みになって下さい」

 ばつが悪そうに、獅子アイトをはじめとする霊獣達が姿を現した。

「何だ、俺たちに気づいてたのか」

「ふふっ! とっくにね」

 弥生も声をあげて笑う。

 この水は最高だ。

 みんなにも飲んでほしい。

「俺たちも、飲んでいいのか?」

 梅は頷く。

「もちろんです。良いも悪いもありません」

 霊獣達はその湧き水を、ごくごくと夢中になりながら飲んだ。

 今まで飲んでいだ水とは、全く違う味だ。

 雷に打たれたような衝撃を受け、獅子アイトはうなり始めた。

 彼の目には、大粒の涙が浮かんでいる。


「…………俺ら、一体何やってたんだ。今まで」