優美な曲線の屋根が印象的な、赤茶色を基調とした岩時神社本殿。

 その中で数百年に一度の、神と人が相対する儀式が執り行われている。

 両開きの扉が完全に閉まり、横木による(かんぬき)をかけられているため、神に人の命が捧げられるまで、誰の出入りも許されない。

 塵一つない畳の上では男女が向かい合い、正座している。

 黒装束に白羽織姿の、灰色の鋭い瞳を持つ美しい男。

 真っ直ぐ腰まで伸びた艶やかな黒髪に透き通るような白い肌の、美しい女。

 久遠(くおん)弥生(やよい)だ。

 男と女が静かに見つめ合う。

 まるで厳かな見合いか、結婚式が執り行われているようにも見える。

 だが弥生は花嫁にしては地味で、簡素な白装束だけを身に着けている。

 正座を崩さずぴんと伸びた姿勢で、弥生は久遠に質問をした。

「どのように切り刻みます? 私の魂を」

「は?!」

 国宝級イケメンと呼びたくなる美男子は、弥生の言葉に反応を示した。

「それにしても……どうしてあなたは白龍ではなく、人間の姿をしているのです?」

「いきなり質問攻め?」

「ええ。私は白龍の生贄のはずです。あなたは見たところ人間ではありませんか」

 弥生は淡々と疑問を口にする。

「……私は人の姿にも龍の姿にもなれる。今すぐお見せしましょうか」

 この久遠の言葉に、弥生は慌てて首を横に振った。

「いえ! いいです別にこのままで全然! てかむしろ、このまま食べられちゃう方が嬉しいかも知れません! だってドラゴンに変身されたら怖いですもの!」

 別に(・・)

 むしろ(・・・)

 突っ込みどころ満載だが、久遠はその衝動をグッと抑える。

 目の前にいる女性は、とても扱いづらい生き物だと久遠は感じた。

 さらに彼女は、とんでもない行動を開始する。

 いきなり畳の上で、大の字になって叫び出したのである。

「さあー! いいですよー! 切り刻んで下さいー!」

 久遠はビックリを通り越して面食らい、呆れ果ててしまう。

 …………何かがズレている。

 大きく。

「魂でも体でもー! 煮るなり焼くなり好きにして下さーい!」

 初対面の弥生は、久遠から見ると狂乱しているとしか思えない。

 好きにして、とは?

 一体どういう意味だろう。

 死ぬのが怖くないのだろうか。

「どうしてあなたは今…………大の字で寝ているのです?」

 彼女の敬語がうつってしまう。

「その方が料理しやすいですよね? 白龍さま」

「……名は久遠ですが」

「じゃあ久遠さま。はい、どうぞ私を召し上がれ!」

「……」

「いっそのこと、一瞬で終わらせていただけませんか? 私は痛いのと苦しいのがとても嫌なのです」

 もともと、生贄の魂や体を食す気など、久遠には無かった。

 とりあえず今は。

 目の前にいる女性と、もっとたくさん話していたい。

「…………あなたの名前は」

弥生(やよい)です」

「弥生。私はあなたを食べる気はありません」

「そうなのですか?」

「ええ」

「……マジ神ウソついてません?」

「…………嘘ではありません」

「ではもう、私、帰ってもいいですか? 久遠さん」

「どこへ?」

「家へ」

「……もし、神の生贄に選ばれたあなたが、元通りの生活に戻ったら?」

「…………戻ったら?」

「『どうして生贄にならなかったんですか?』って怒られるだけでは?」

 弥生は「うーん」とか「それもそうですねー」とか言いながら、考え込んだ。

「それはまずいですよね。私の両親、隙あらば私を逃がそうとしちゃうんですもの」

「……良いご両親じゃないですか」

 久遠は思った。

 この弥生という女性は両親の愛を一身に受け、大切に育てられてきたのだろう。

 だから自分のために両親が犠牲になり、命を落としてしまうのが嫌で、生贄になることを自ら選択したのかも知れない。

 弥生は深く頷いた。

「二人とも、人が良すぎるのですよ」

 久遠の前で弥生は、自分の父親そっくりの口調で話してみせた。

『我々はお前の命を、なんとしてでも守りたい。そのためならば自分達が、地獄へ落ちようと構わない。お前の人生はお前だけのものだ。弥生』

 ムクリと起き上がった弥生は、畳の上で両膝をついて久遠を見た。

 彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。

「このままだと私の大切な両親が、私を助けようとした罪で、町の人たちに殺されてしまいます。どうか、早く私を食べちゃって下さい」

 人とは、このような考え方が出来る生き物だったのか。

 自己中心的な神々に囲まれながら生きて来た久遠は、弥生の行いに心打たれた。

「私、嬉しかったのです。両親が私を大切にしてくれて。ずっと守ってくれて。命がけで逃がそうとしてくれて。とても、とても嬉しくて、どうやって恩返しが出来るかをずっと、考えていたのです」

「…………」

「それで、私のやるべき事っていうのはきっと、あなたに命を捧げる事なのだと思いました。私はもう、充分なのです。久遠さま、私の魂を連れて行って下さい。私はここで『みそぎ』をやって『気枯れ』の体になりました。ほとんど誰とも喋らないまま本殿の中で、たった一人でやり遂げました」

「…………」


「あなたに魂を捧げるために」











 この命尽きる最後の一瞬まで、自分に問い続けなければいけない。


 何が間違いで、何が正しい行いなのか。


 何を一番、大切に想っていたいのか。


 弥生と久遠の中で、この出会いは全てをくるりとひっくり返した。

 
 思いがけず彼らは、自分自身を、魂を、全てを捧げるべき存在が互いの目の前に現れたことを、一瞬で悟ったのである。






『……これは?』

『我が家に古くから伝わる盃と剣だ。お前を守ってくれるだろう』

『どうして? 私は神の生贄に選ばれたんでしょ? こんな事したら父さんと母さんが殺されてしまうわ』

 こんな掟破りをしては、絶対に後戻りできなくなる。

 弥生の一族は、大変古い家系だ。

 岩時を守る一族のひとつ、時刈(とがり)

 弥生の父は権宮司で、母も神職に携わっている。

 町長をはじめとする岩時町の人々全員が、神の生贄として弥生を選んだ。

 この地には恵みも多いが、地震や洪水などによる天災も多い。

 弥生が生贄に選ばれた理由は簡単。

 町一番の器量よしであり、蘇りを得意とする時刈(とがり)の末裔だったから。

 涙がこみ上げる。

 本当は全てに絶望していた。

 怒り狂っている神龍を鎮めるために、弥生の命を捧げようという安易な取り決め。

 神がそれを望んでいるかは知った事ではない。

 人間側の自己満足に過ぎない行為。

 それでも生贄は選ばれる。

 17歳になるまで両親は、弥生を大切に育ててくれた。

 そんな両親の悲しみなどお構いなしに、弥生を生贄として神に捧げようと、多数決で決められた。 

 それがさも当たり前で尊い務めだとする、自己中心的な人々によって。

 自分達が助かるためには、誰かが生贄として犠牲になることを、彼らは当然だと思っていた。

 弥生が神のために死ぬことは名誉あることなのだと、妄信していたのである。

 両親は弥生を諦めなかった。

 生きて欲しいという。

 だが弥生は、自分のために大好きな両親が殺されるのだけは、我慢ならない。

 なので頭のてっぺんから足の先まで飾り立てられ、自らの意思で生贄になった。

 白龍に身を捧げるために。









 久遠と弥生が出会う少し前。


 深い霧がたちこめている天の原を、18歳になった久遠が一人、彷徨っていた。

「ちょいと。そこのイケメンさん」

 気配をまるで感じなかったのに。

 いきなり、後ろから声がした。

 驚いて振り返ると、白龍・清名(セナ)が人の姿をして立っている。

 時折、銀色に透き通る白髪。

 薄茶色の瞳、桃色の頬、大きな瞳、細くてスッと通った眉。

 久遠が出会った中では一番美しい白龍だ。

「こんな所で一体何をしているんだい? 人間(生贄)でも観察に来たの?」

 こんな喋り方をしているが、清名の性別は男である。

「…………遠い昔に落ちていた『龍の目』を探している」

「ああ、あの、変わった石だね。人間の行いが見えるという」

 皮肉なことに神々はもう、『龍の目』を使って人間達を見ようとなどしていない。

 人間の願いを、言葉を、叫びを、聞こうとしていない。

 人間という生き物にすっかり、飽き飽きしているからだ。

「拾ってどうするつもりなんだい?」

「探そうと思う。心揺さぶられるものを」

 久遠の母は高天原の白龍だったが、人間世界へ旅をする途中で産気づき、久遠をこの『天の原』という場所で産み落とした。

 高天原の神々は久遠の誕生を「吉兆の証である」とし、希少な白龍が自身の治政下で誕生した事を、おおいに喜んだ。

 久遠が生まれたこの地にはやがて、『龍宮城』が建てられる。

「この地を繫栄させ、もっと『白龍』を増やすように」

 だが久遠の両親は、その命令を完全にスルーした。

 というより久遠の両親には久遠以外、子宝が一体も授からなかったのである。

 いくら命じられても久遠の父は、自身の妻以外の女性を妻として娶らなかった。

 これには最強神・深名(ミナ)も黙っているわけにはいかない。

 黒龍神の命令を断固として拒んだ久遠の父は、やがて神々の激しい怒りを買い、愛する妻と引き裂かれ、最終的には黄泉(よみ)の世界へと追放される。

 その後、無理やり他の神に嫁がされた美しい久遠の母は、血を吸われる寸前に自害し、あっけなく消滅したと聞く。

 久遠がまだ、少年だった頃の話である。

 18歳になるまで、久遠は何も知らずにチヤホヤされながら生きて来た。

 耳を塞ぎたくなるくらい、言われた言葉がこれである。


「久遠様、そろそろご結婚なさらないと」