何故か胸騒ぎがする。

 大地は懐の中から、燦然と輝く魂の花を取り出した。

 矢のような形に変化しながらスルスル伸びた白い花は、青い湖の中へドボンと根元から飛び込んだ。

 凄まじいスピードである。

 勢いがあり過ぎて、とても目では追いかけられない。

 手を離さないよう茎を強く握りしめながら、大地は言った。

「梅。律を紺野達の所へ連れて帰ってくれないか? あの透明な扉から」

「わかりました。大地は?」

「この花を追いかける」

「わかりました。では、後ほど」

「ああ。頼む」

 大地は、マユランやユナやスウ王……王族全員に頭を下げた。

 彼らの後ろにそびえ立つ、今は静かに佇む巨大な螺旋城にも。

 白を基調としているが黒が入り混じっており、そのコントラストがとても美しい。

「……大事な螺旋城を壊して、本当に悪かった」

「ううん……行ってしまうの?」

 マユランに聞かれ、大地は頷いた。

「ああ」

「律も…………?」

 マユランの手をギュっと握って、律は頷いた。

「うん。別れるのは、寂しいわね。せっかく仲良くなれたのに」

 マユランは、律の手を強く握り返した。

「マユラン。帰ってからも、私はあなたに向けてピアノを弾くわ。聴いててね」

「ええ! もちろん!」

「ユナ。ナユナン連れてまた戻って来る」

「ありがとう、大地」

 ユナとスウ王は感謝を口にし、大地に手を振った。


 大地は、青い湖の中へ飛び込んだ。


 一瞬の出来事。


 どういうわけか、水の中でも呼吸が出来る。


 どこまでも深くまで潜っていける。


 みるみるうちに螺旋城が遠ざかってゆく。




 時の神・爽も、いつの間にか螺旋城から姿を消していた。


「………本当に行っちゃった」

 マユランの目から、一筋の涙がこぼれた。

 ナユナンやジンやシュンは今頃、どうしているだろう。

 言いようのない喪失感に、襲われてしまう。

 マユランは決して、全てを忘れたわけでは無い。

 いくつもの過去が、経験が、マユランの頭の中で混ざり合っている。

 暗闇でたった一人佇む自分が、強烈な記憶と共に時々、フラッシュバックする。

 色々な想いが溢れ出す。

 どんな事にも怯まず希望を持って、必死に耐えながら生きて良かった。

 あの暗闇に中にいた自分を包み込み、今こそ優しく抱きしめてあげたい。

 守りたい大切な人がいる今を、懸命に生きてみせる。

 自分を律しながら。

 マユランは、大地が去った湖を静かに見つめる母に視線を向けた。

 これが当たり前で、これが正解なのだと、簡単に考えてはいけない。

 時間は動き続けている。

 良くも悪くも……いくらでも姿を変えてしまう、生き物のよう。

 だから死を迎えるその時まで考えを止めず、決断し続けなければならないのだ。

 本当にこれで良いのだろうか? と。










 岩時神社の社務所前。

 人間達はようやく、時間を取り戻した。

 灯篭と提灯の明かりが、夜の神社を赤々と照らす。

 岩時神楽のリハーサルの後、厳かな音楽祭が始まろうとしていた。

 まるでそれまであった出来事が嘘のように、人々は祭りに夢中になっている。

 一部の高校生と、霊獣達を除いて。

 獅子カナメは狛犬シュンを探しに行ったきり、人間の世界へ戻ってきていない。

 鴉のハトムギを始めとする霊獣達が、社務所の警護に当たっている。

 律は久しぶりに、人間の世界へ戻って来た。

「律!」

 紺野と結月は社務所の中で、帰って来た律の方へ駆け寄った。

 梅が後ろで微笑んでいる。

 結月は律を力強く抱きしめ、震えながら泣き笑いを浮かべた。

「律……無事で良かった! 帰って来てくれて嬉しい!」
 
 結月の背中に手を回し、律は強く抱きしめ返した。

「結月も無事で、本当に良かった! 紺野も!」

 いつもカタコトの結月が、すらすらと気持ちを打ち明けてくれたことが、律には嬉しい。

 待っていてくれた人達がいる。

 こんなに幸せなことは無い。

 紺野は立ち上がり、申し訳なさそうに梅へ声をかけた。

「円鏡でずっと見ていました。何も力になれなくて申し訳ありません」

 梅は首を横に振った。

「いいえ。そんなことありません。気にかけていただいた分だけ、我々は力を与えてもらっているのです」

「梅さん。大地がまた……」

「ご覧になった通りです。魂の花を追いかけ、青い湖を通って別な世界へ…………」

 震えながら律は言った。

「大地はドラゴンだったの。ねえ、知ってた? 私を……助けてくれたの。命を張って、守ってくれたのよ」

 紺野と結月は頷いた。

「うん。知ってた。私の事も守ってくれた」

「そうだね。僕も守ってもらったよ」

 全員、申し訳なさでいっぱいになる。

 はじめて口にしたが、幼馴染の誰もが、昔からとっくに認識していたのだ。

 いちばん大地と仲が良いさくらもきっと、この事は理解しているだろう。

 大地がただの人間では無いことを。

 だが。

 それが何だというのだろう。

 ドラゴンだろうが人間だろうが、そんな事はどうでもいい。

 自分以外の何もかも、誰も彼もが、本当は異質そのものではないか。

 大地が何者であろうと、友人たちにとってそんな事実は、些細な事だった。

 幼い頃から気持ちは全く変わらない。

 おおらかで、優しくて、強くあろうとする、大地は大事な友達だ。

 ただそれだけだ。

 律は情けなくなり、俯いた。

「私…………自分だけ逃げてきちゃった。大地はまだ残って、凌太たちを助けるために戦ってるのに」

「僕たちはきっと、僕たちらしい方法で、大地の役に立てると思う」

 律は顔を上げ、紺野を見た。

「羽山さんの音楽は、大地にすごく力を与えていたよ。ここからみんなで応援していよう」

「…………うん」

「まだこちらに帰って来ていないのは、どなたですか」

 梅の問いに、紺野が答えた。

「あとは矢白木凌太(やしろぎりょうた)と、露木(つゆき)さくらだけです」

 二人が帰って来るには、どうすればいいか。


 全員で考えよう。


 何かいい方法が、思い浮かぶかも知れないから。







 時の神・(ソウ)は、心の中が暗雲に覆われ、モヤモヤしていた。

 そんな中でも彼は、きちんと役割を果たしている。

 螺旋城の地下で、新たなる『時の輪』を完成させたのである。

 『時の輪』は美しい円状になり、ようやく規則的に回り出した。

「よし。これでもう時間は元通りだ…………ん?!」


 ぷすぷす…………


 きゅんっ!


 変な音が出たと思ったら、爽の杖はモクモクと煙を吐いている。


「あれ」


 振っても術を唱えても、杖は反応しなくなった。

「まずいな。天空時(トウロス)のかけらも完全回収出来てないのに」

 杖は完全に壊れてしまったらしい。


 ────ついてない。


 ……それにしても。


 何だったのだ、あの映像。

 深名孤め。

 深名斗に見せつけるための演技だったのかも知れないが、あれは許せん!

 …………よりによって。

 姫毬の姿で温泉に入り、その後で、イケメン達によるみだらな(?)マッサージを受けるとは!


「かー------------マジで、腹が立つ!!!!」


 いたたまれなくて、何も言わずにあの場を去った。

 深名斗も深名斗だ。

 久遠の言葉に騙されて、コロッといなくなりやがって。

 激高して体当たりした自分が、めっちゃ馬鹿じゃん。

 くっそ。

 死ねや。

 姫毬の浮気など日常茶飯事なのだから、いつも通り、考えない様にすれば良い。

 だが。あれが深名孤だとはいえ映像として見せられると、さすがに心がざわつく。

 葛藤は停滞を生む。

 時の神は立ち止まってはいけない。

 そうだ。時の神は、立ち止まってはならないのである。


 …………ならないのである。

 杖を直そう。

 直さないと帰れないし。

「そこのお方。ちょっと道をお尋ねしたいのですが…………」

 艶やかに後ろ髪を揺らす女性が近くを通り過ぎたので、爽は彼女に声をかけた。

「岩時城はどこでしょう。武器工房へ行きたいのですが」

「……これから戻るので、ご案内いたしましょうか。私はその武器工房の者です」

 振り向いた女性を見て、爽は目を丸くした。

 彼女こそ他でもない、爽の妻、姫毬本人だったからである。


「…………爽様? 何故ここに?!」


「…………毬。久しぶり」


 この瞬間。

 今までで最も間抜けな表情になる自分が、爽は憎かった。


 何百年も会っていなかった妻に、彼はこうして再会を果たしたのである。