「噂」って、真実が語られている場合なんて滅多にないと、私は思う。


もちろん正しい事実がそのまま広がることだって、無いことは無い。


そう例えば―――、「無口で無愛想で目つきの悪いクラスメイトの男の子、その子の親は実は裏稼業を生業としている」とか。


どう考えても嘘みたいな話。けど信憑性なんて考えない。ただその危険な匂いがぷんぷんする雰囲気にのせられて、人から人へと止まることなく噂は流れていく。


だけどそういうビッグな噂の場合、次第に原型は変化していく。


そんなやばい親を持っているなら、その子もきっとやばいに違いない! ここ周辺の暴走族を粛清するため夜な夜な街を徘徊している、幼少からヒットマンとしての教育を受けて育った、睨みで人を殺せる、実は機械人間、その他エトセトラ……、…………。


冷静になればどう考えても嘘だとわかる話も、「噂」という形でささやかれれば、それは真実よりも現実味を帯びてしまったりする。


嘘かホントかわからない噂を耳にした場合、私は極力耳を塞いで知らぬ存ぜぬを突き通すと決めている。


振り回されない、惑わされない。何事も自分の目で見てから確かめる。たとえ聞いても、誰かに吹聴したりもしない。


噂が独り歩きしてろくなことは起こらないことは、常識として知っていた。


結論から言うと、私の常識は正しかった。


噂。ビッグな噂。ひとたびこれに火がつくと、やっぱりろくなことは起こらないんだ―――……。


「水樹ちゃん!」


呼ばれ慣れない呼び方で声をかけられると、反射的に肩がびくっ!と揺れた。


プリントの内容をノートにまとめる作業が、その一声で止まる。


机のそばまで一人の生徒が近寄ってきた。見上げれば強烈な真っ赤な髪色に眩暈がしそうになった。マスカラがぐいっと目じりを釣り上げていて、目力が強い。クラスメイトだったはずだけど、未だに苗字もわかんない…。


「C組の子連れてきたんだけど、例のこと、もっと詳しく話してあげてくれない?」

「えぇと………」


私は引きつった顔に無理やり笑みを浮かばせながら、目の前にずらっと並ぶ女の子たちを見た。


ざっとみて5,6人はいる。一応ここ、A組の教室なんですが……。そんなこと彼女たちには関係ないのか、当たり前のようにC組の子たちが私の机を囲んでいるこの状況。


全く知らない顔ぶれに四方から見つめられ、背中にたらりと冷や汗が流れた。


ピンチだ。”大”があと百個ついても足りないくらいの大ピンチ。


人見知りする性格なうえ、初対面の人には特に口下手になってしまう私が、こんな押しが強い女の子たちに囲まれるなんて!きっと今私、相当ヒドイ顔してる。


この状況は一体どういうことなのか?


信じられない話だけど、この状況は今に始まったことではないのだ。なんと約1週間近く、私の机の周りはこんな状態だった。


「来栖くんが喋ると、どんな感じなの? 声とか、口調とかさ。雰囲気も変わるの?」


C組の名も知らぬ女の子に聞かれ、私はいよいよ焦ってしまい目をシロクロさせる。


「えと、ど、どうと言われても、ふつう…というか…」

「あの人が喋れるようになったのって、水樹ちゃんのおかげなんだってね」

「! ち、違う! ほんとにそれは違うの! 私のおかげとか、そんなんじゃなくて、たまたま偶然……」

「うちらが話しかけても無言か『うるせぇ』しか言われなかったのになー。今だって相変わらず睨まれるだけだよ?」

「そうそう、まともに話せる感じしないし」

「水樹ちゃんにはちゃんと反応返すってA組の人言ってるけど、マジ?」

「あ、いや、それは…なんというか…」


も、もう勘弁して!!


ぐいぐい詰め寄ってくる彼女たちに心の中で悲鳴が上がる。


”来栖礼央が喋った!”


今、この学年―――下手したら学校中が、この噂でもちきりだった。


どこから広まったんだろう、と最初はわからなかったけど、考えるうちに思い至った。


B組の男の子たちだ。私がB組の教室で男の子たちに絡まれていた時、来栖くんが助けてくれた。


あのとき、来栖くんは確かに”喋った”。「邪魔」とか「消えろ」とかろくな言葉じゃなかったけど。


休みが続いていた来栖くんは再び学校へ登校してくるようになって、教室の中はいつも通りの風景に戻ったーーーと私は呑気に安心していたけど、ジワジワと噂は水面下で広まり始めていたようで……。


徐々に表沙汰になり始めたころ、噂の真相を決定付けるように、ある日教室内で来栖くんがついに「喋った」。それも……私に向かって。


ほんとに、たった一言だけ。帰りのHRが終わってから、来栖くんが私の机のそばへ来て、「帰るぞ」って。


その日は、あの公園での一連があってから3日ほど経ってたからのことだった。それまではみんながいる前で来栖くんと話したことはなかった。向こうはずっと寝てるし、私も話しかけにいっていいのかわからなくて…。放課後になってようやく私が、相変わらず寝ている来栖くんを起こしに行くっていう流れが出来上がりかけていた。


それがいきなり来栖くんの方から私の元へ来て、「帰るぞ」と声をかけてくるとは。


クラスのみんなも驚いたと思うけど、私も同じくらい驚いて。でも、誘われたことが嬉しかったから、つい「うん」って返事してしまった。


その時のクラスのざわめき。ギョッとしたように私を見た表情。雅ちゃん以外、みんな同じことを思って、同じ表情をしてたと思う。


そりゃそうだ。来栖くんが喋っただけでも衝撃的なのに、その彼が話しかけた相手が、全く不釣り合いなくらい存在感のない私みたいな人間だったんだから。


噂とこの出来事のおかげで、私の元には連日こんなふうに噂の真意を確かめにやってくる女の子たちが急増していた。


常に様々な話題の渦中にいた来栖くんなので、女の子たちは気になって気になってしょうがないみたいだ。


だけどこんなふうに休み時間のたびに大勢に詰めかけられ、次の授業の準備もままならない私の都合は…。


私が途方に暮れている間も、女の子たちの質問の波は止まらない。曖昧な返事で受け流しながら、私はちらりと後ろの方を確認する。


私はこんな目にあってるのに、来栖くんが全然被害を受けてないのってなんでなの!?


視線の先にいる彼は、今日もいつもと変わらずぼうっと窓の外を見ているだけ。


私の危機的状況になんて全く関心がないみたいに、呑気に空なんて眺めてる。


噂の中心人物であるはずの来栖くんの周囲は驚くほど平和だ。


誰かが話しかけに行く様子もないし、逆に前よりも距離を取られているような気さえする。遠巻きにして見る視線は増えたけれど。


困ったことに来栖くんは、前と何も変わらず話しかけてくる人には睨みと舌打ちで返しているのだ。好奇心から勇敢に話しかけにいった人たちの心を、その人睨みでことごとく折っていく。むしろ前より威圧感が増したとさえ言われている始末だ。


そのせいもあってか、近寄りがたさが上がってしまった来栖くんより、だいぶ無害そうな私に様子を聞きにくる人が増えてしまったらしい。


確かに話ができたのは事実だけど…、だからってなにも私が来栖くんを手懐けたみたいなふうに捉えられるのはちがう! 完全に誤解だ。


ああもう、来栖くんも私に話すみたいに、他の人ともちゃんと言葉を交わせばいいのにー……!


恨みがましく後方にいる来栖くんを見ると、空から視線を外した彼がふとに私の方を見た。


パチリ、と目が合う。


私は咄嗟に目で「助けて!」と必死のヘルプ信号を送った。


けど、彼は眠そうな目で私を見返すと、薄い唇を僅かに開き―――、


『さっさと追い返せ』


声には出さず口の動きだけでそう言うなり、目を閉じて寝てしまった。


信じられない思いで私は目をむく。


あっさり見捨てられた!?


「ちょっと水樹ちゃん、うちらの話ちゃんと聞いてる?」

「えっ!? ああ、はい、もちろん!」

「よかった。じゃあさ、今度水樹ちゃんから来栖くんに『なんか喋って』ってお願いしてみてよ。あたしらまだ声とかちゃんと聞いたことないしさ!」


こ、この無茶ぶりも一体何度言われたことか。


頭を抱えたくなる気持ちもなんとか抑え、今度はどう断ろうかと案を絞り出すしかない。


こんなのがいつまで続くんだろう…? 私の平和な日常が早く帰ってきてほしい。


今は雅ちゃんも先生に呼ばれて不在だし、いつもみたいに助け船がない。自分で何とかしなきゃいけないけど、こんな大勢の女の子をいっぺんに相手にするなんて無理だよ…!