冷やしたら痛みも引いてきた。
傷はかさぶたになるかもしれないけど、むやみに触らなければ痕にはならないはずだ。
教室に戻り改めて来栖くんにお礼を言うと、私は自分の席についた。
無事に仕事も終えたし、心おきなく勉強ができる。
明日の科目は世界史、数学、英語。
数学と英語はなんとかなりそうだけど、世界史はまだ皇帝の名とか文明の名とかごちゃまぜ。うろ覚えのまま本番にいくとかえって混乱してしまう。これは経験談なので、今日できっちり完璧にしなくちゃ。
ファイルから穴埋めプリントを引っ張り出し、私はノートに答えをかきこんでいく。
ノートに向かいながら、意識の端で来栖くんの気配が遠ざかるのを待っていた。
教卓に置いたバッグを持ったらすぐに帰っていくのだと、そう思っていたのに、何故か上履きの音は私の方にやってくる。
くるはずのない足音に驚いて顔をあげると、ちょうど前の席に来栖くんが腰かけたところだった。
え、え??
な、なんでそこに座るの? 帰るんじゃ……。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
話しかけてもこないし。
「??」
来栖くんは私の机に頰杖をつく。その席の本物の主もよくやる似たような仕草に、私は戸惑いが隠せない。
隅に置いていた世界史の教科書を取り、興味もなさそうにぱらぱらとめくる。
「…あのぅ…どうか、した?」
「…………」
無言。
「そこ、いちおう雅ちゃんの席なんだけど…」
「いねえんだから、誰が座ってもいいだろ」
そんなルールはありません!
堂々と背もたれに背を預ける来栖くんは、まるで自分の席に座っているようなくつろぎ方だ。
きっとこれを見たら雅ちゃん、「勝手に人の席に座ってんじゃないわよ」って目吊り上げて怒っちゃうよ。
「昨日もやってたな」
「え?」
「勉強」
「あ…うん!」
「意味、あんの?」
私は目を瞬いた。
すごく、既視感のある質問。
確か入学したての頃、隣の席にいた女の子にもおんなじこと聞かれたっけ。
『勉強なんかして意味あるの?』って。
馬鹿にした感じではなく、純粋に理解できないから聞いてきたという素朴な問いかけだった。
今の来栖くんもきっとそう。
「意味ないことはない…と思う」
眼前にはテストという目的があるし、それだけでも無意味なことはない―――はず。
出した声は、自分でも情けないくらい自信なさげだ。
改めて意味を問われると、どう答えるのが正解かわからない。今まではずっとやれと言われたからやるのが当然だと思ってたから。意味なんて、考えたことなかった。
「勉強って学生の義務というか、やるのが当たり前だって思っていて…。来栖くんも勉強は好きじゃないの?」
「だるい」
面倒そうな一言。
来栖くん、学校にいる間ずっと寝てるもんな…。睡眠をとりに登校してきてるんじゃ?とたまに思わなくもない。
私の世界史の教科書、勝手に取ったわりには読んでいる様子もないし。
「お前は好きなの」
「! う、うん、好き。ていっても、私も最近気づいたばかりで…昔はあんまり好きじゃなかったんだ。でも今は好き。わからないことがわかるようになるのが楽しくて」
「変わってんな」
うっ。
また変わってるって言われた…。
「…そんなに変かな?」
「ただの作業じゃねえの? こんなの。楽しいわけあるかよ」
作業。
なぜかその言葉に中学時代のことを思い出した。
気持ちは、わかる気がする。受験の時は私も作業的に勉強してた。なにも楽しくなかったし苦しいだけ。テストや模試のためにプレッシャーに圧し潰されそうになりながら、ただひたすら問題を解いていく。ロボットみたいに機械的に。
けど今は違う。
「…私も、前は作業的だったよ。楽しむ暇なんてなくて、すごくつまんなかった。でも今は、自分がやりたくてやってる。テストのためっていうのはもちろんあるけど、それよりも気になっちゃうんだ。世界史とか、国ができて滅んでしまうまでの過程とかわくわくしない?」
「べつに」
がくっ。
私はずるりと肩を落とした。
完全に来栖くんは興味ないんだな…。
「面白いと思うんだけどなぁ」
私がむくれて呟いている間も、来栖くんはぱらぱらと教科書をめくっている。地図や写真をじっくり見るわけでもなく、映画のフィルムみたいにページの表面が一瞬見えては流れていく。
相変わらず読んでなさそうだし、すごくつまんなそう。ならなにを見てるんだ、この人。
「あのぅ…私テスト勉強してもいいでしょうか」
おずおずと言うと、来栖くんはようやく教科書を閉じて机の上に戻してくれた。
「来栖くんも、勉強しない?」
ぽろりと、無意識に出た言葉に私は慌てた。
うわっ、私何言っちゃってるんだろ!? つい変なこと言っちゃった!
いや、だってさっき来栖くんが「作業だろ」なんて昔の私みたいなこと言うから…なんだか無性に悲しくなって。
一緒にやれば少しは楽しいって思ってくれるかもしれないとか、そんなことを考えてしまったのだ。
来栖くんの綺麗な金髪で透けた額に、一本シワが寄ってしまう。
「なんで?」
「いや、その、やっぱり自分の好きなことは共有したいっていうか、1人より2人のほうが楽しいかなって…」
「んだそれ、意味わかんねぇし」
ですよね…。
再びがっくりと肩を落とす。
好きでもないことを無理やりやらせても迷惑だよね。
おとなしく私は私で勉強しよう。それが無難だ。
私は再びプリントに向かい、シャープペンを持ち直した。
「………ていうか、来栖くんは帰らないの?」
ふとすごく初歩的な疑問を口にする。
全然腰を上げようとする気配がないんだけど。そういえばここに座ってきた理由もわからないし、何のために――――。
「暇だし、見てる」
「!?」