長かった大学受験が終わって、今日は一年前に別れた年上の元恋人と、一年ぶりに会うことになっている。これで最後にするのだから、微妙に浮いてるアイプチも、なんとなく季節感のない黒いコートも気にする必要ないのにな。
胸がそわそわ。待ち合わせ場所は少し大きな駅の改札。私の方が、先についた。

平日の昼過ぎ。案外人通りは多くて、カップルも何組か目の前を通り過ぎていく。
いつあの人が来てもいいように私は平然を顔に無理やり貼り付けて、なるべく駅の景色に溶け込むように立っていた。

「ごめんね、待った?」
声が聞こえて少しだけ体がビクッと震えた。なるべくいつも通り。ポーカーフェイス。言い聞かせて笑顔を作って、私は顔を上げる。
「いえ、大丈夫です。 お久しぶりです」
私は間髪入れずに彼にあげようと持ってきていた紅茶の入った紙袋を押し付けた。
「お忙しいのに勉強を見てくださって本当に助かったので、そのお礼です」
大学院生の彼は、別れた後も、私のわからない問題の質問を受けてくれた。そのお礼を口実に、会いたいと声をかけたのは私。でも、本当は、曖昧だったこの人との別れを、可視化するためだった。

「どっかですこしお茶でもしよっか」
目を合わせると、なんだか声が出なかった。私はうなずいた。
駅直結のショッピングセンターにつながるデッキを2人で並んで歩く。
私たちの間には人半分くらいの隙間が開いていた。

全国チェーンのカフェに入った。彼はミルクティーを、私は抹茶ラテを、それぞれ注文した。今日は、甘えたくなかった。でも、彼は私にお金を払わせてはくれなかった。
とりあえずドリンクを受け取って座席を確保。そしてすぐに彼が席を外す。どうやら数分間、研究室の電話会議に出なければならないらしい。その間、飲む人のいないミルクティーを眺めながら、私は昔のことをすこし思い出していた。

川の向こうには、遊園地。ライトアップされた観覧車は華やかに刻一刻と色を変えていく。その光の宝石が水面で躍る。私はそんな景色を見ながら、3回目のデートで彼に告白された。腕を広げる彼に、私は体を委ねる。細身の彼なのに腕を後ろまで回してみると、案外胸板が厚かった。そして、洗剤の匂いとほんのすこしの汗の匂いがそっと鼻腔に触れる。胸がきゅうっと締め付けられるようなあの匂いを私はもう思い出せない。あんなに幸せだったのにな。


「おまたせ」

彼の声がしてはっとする。

「会議、お疲れ様でした」

「いや、絶対あれ俺いなくていい会議なんだよ。ちょっと面倒臭かったなあ」

2人で笑う。
それからしばらく、世間話に花を咲かせた。
仮にも別れた人と話していると言うのに私の前に座るこの人は、ニコニコしている。
私も、気分がすこしほぐれて、彼が話す大学での化学の授業の話に憂鬱になってみたりもした。

20分くらい経って一旦会話が途切れて、私は抹茶ラテの最後の一口をストローで吸い込んだ。残るのは、氷だけ。

「あの」

目の前のミルクティーが少しずつ減っていく。それを見つめながら、私は話し始めた。

「付き合ってたとき、いきなり別れて欲しいって言ってすみませんでした」

ミルクティーの減少が一旦止まる。彼はどんな顔してるのかな。怖くてまだ見えないや。

「あの時、私は本当に大好きで、だけど、受験勉強と学校の行事と色々なことで余裕がなくて、2人で会うこととか、これからちゃんとできるのかなって思ったら、自信がなくて」

彼が相槌を打ってくれている。
なんだかもう、私はこの人のことを上目でしか見れないな。

「本当にごめんなさい」

コップから、ミルクティーが全部なくなった。

「気づかなくて、ごめんね」

そう言った彼の目は潤んでいて、つられて私の視界も少し滲んだ。
この人と、ちゃんと恋愛できたらよかったな。後悔が洪水のように押し寄せてきて、涙がこぼれ落ちそうになったけど、その全部をコップの中の溶けた氷で飲み干した。
そして2人ほとんど同時に立ち上がる。

お店を出ると、春の匂いをまとったすこし冷たい風が吹く。ふと彼のワイシャツの間からシルバーの何かがこちらを覗いてきた。おそらくネックレスだろう。
この人にはもう、私を完璧に忘れてほしい。


「俺は相鉄で帰るから、相模線まで送るよ」


「大丈夫です。 今までありがとうございました」

優しさを断って、丁寧に頭を下げる。私の足元のアスファルトの色がすこし濃くなったこと、彼に気付かれていませんように。


「こちらこそありがとう。」

顔を上げて大好きだった人の目をしっかり見つめる。

「それじゃあ、また」

私は、彼に背を向けて歩き出す。一応、またねと手を振ったけれど、もう会うことはないのだろう。

ひたすら歩く。駅の雑踏が耳に入らないくらい、一生懸命改札に向かって歩く。
振り返らない。振り返らない。振り返らない。
言い聞かせて歩く。
でも……。
改札を通る前、一瞬だけ立ち止まった。そして、最後に一回、今来た道を振り返る。午後三時過ぎの駅。改札前。私を囲む世界はまるでスローモーション。



そして。
振り返った先に、あの人はいなかった。



よかった。本当によかった。これできっとあの人は私を忘れてくれる。私を忘れて幸せになってくれる。自分に言い聞かせる。よかった、よかった、よかった……。


そして私はホームに停車していた電車に飛び乗った。途端に発車ベルがなって、電車が動き出す。
駅から次第に離れていく。離れていくホームを見て、またちょっとだけ泣いた。



ばいばい、もう会わないよ。どうか、元気で。