「美術室の天使」
多くの一般生徒は、彼女のことをそう呼んだ。
今にも消えてしまいそうな儚さと美しさを纏った君の容姿には、かなり的確な表し方だと思う。
「先輩、わたしなんて描いて楽しいんですか?」
平筆を動かしながら、横目に僕のことを見た。
生憎、今日は、僕と君しか部活に来ていない。
そりゃそうだ、ポピュラーな部活とはいえ、これだけ幽霊部員が多ければ、来る人も限られてきて、予定が合わなければ、その分、もっと少なくなる。
「楽しいって言うかさ、まあ、思いを形にするって言うか」
「……それが、なんで、私を描くことになるですか。」
さっぱり、わからないと言ったように、彼女が首を横に振る。
彼女は、絵に描かれるのは、あまり好きではないみたいだ。
この絵のことを頼んだ時も、『仕方ないですね。先輩だから、今回だけ特別ですよ?』なんて言われたのを思い出す。
彼女は、疎いからわかってないけど、そういうのは思わせぶりっていうんだよ。
まあ、そこまで分かりきってしまって、逆に呆れてしまう僕も僕なんだけど。
「というか、私なんかより、前に描いてた花の方が、よくなかったですか?」
今更遅いんですけど、と付け足される。
前に描いてた花というのは、今彼女を描くために、一度、白で塗りつぶしてしまったリナリアの花の模写のことだ。
「いいんだよ。別に。」
別に、と強がったような言い方をしてけど、本当は弱気な僕を許してほしい。
「えー、そうなんですか。」
彼女には、噂があった。
もともと、美術室の天使なんてあだ名がつくくらいだから、有名人ではあったんだけど、もっとその名を知らしめるような出来事があった。
『美術室の天使って、保健室の王子のお気に入りらしいよ。』
そんなことを聞いたのは、いつだったか。
保健室の王子というのは、僕のもう一つ上、つまり、三年生で、保健室でよくサボっていると噂の先輩のことだった。
実は、美術室の天使というのも、それになぞって誰かがつけたそうだ。
彼は、僕が一年生の時から、その先輩がかっこいいだとか、保健室に行けば、一度なら相手してもらえるとか、あちこちで噂の飛び交う人気者だ。
……顔がいいだけの、ただの女たらしなのに。
「先輩!やっぱり、他のキャンバスに描けばよかったのに。」
「だから、いいんだってば。」
君が懲りずに、そう言った。
他のキャンバスに描き直しちゃいけないんだ。
そんなの、意味がなくなってしまう。
白く塗りつぶして、隠したことに意味がある。
突然、ガラガラと美術室の後ろの戸がひかれた。
「ゆーちゃん、まだおわんねぇの?」
勝手に、ゆるく着崩された、茶髪が入ってきた。
僕は、アイツが嫌いだ。
「うわ、鷹野先輩、なんでいるんですか」
"ゆーちゃん"だなんて、馴れ馴れしく呼ばれた彼女が、思わず走らせる筆を止めた。
「だって、会いたくなったんだもん」
ほんと、やめてほしい。
どこか別の場所でやってほしい。
美術室の天使が、保健室の王子のお気に入りから、彼女に肩書きが変わったのは、つい数日前のことだ。
それも、彼女を作らないことで有名な王子の、ハートを射止めたって、また噂になった。
それは、つまり、君は軽そうに見える先輩の本命ってことなんだけれど。
「あーあ、今日の部活、男と2人っきりだったの?ねえ、早速、ゆーちゃん浮気?」
「な、違いますよ!先輩とは、そんなんじゃ」
どさくさに紛れて、戦力外通知なんて、なんで、こんなについていないんだ。と、内心項垂れる。
「へー、んじゃ、外で待ってるね、早く片付けておいでね」
手をひらひらさせて、一旦退場する、保健室の王子。
「先輩!すみませんでした!」
「いやいや、いいよ、別に」
ほらまた、別に、なんて強がっちゃって。
ちょっとした、虚無感に襲われる。
わかってるよ、思いを伝えられない僕よりも、現在進行形で、きみと恋人の彼の方が何枚も上手だってことくらい。
だから、最後の悪あがきってことで、この絵を完成させるよ。
君には、一生気づかれないように隠した、矛盾してるリナリアの花言葉。
この恋に気づいて。