1992年私は小さな田舎で生まれた。私には姉2人父、母、祖父、祖母がいた。
私の家は酪農家で、母と祖父はいつも忙しかった。私たちに構ってる時間は限られていた。でも精一杯愛情を注いでくれてると思っていた。忙しくも少ない時間で構ってくれる母が私は大好きだった。完全なママっこだった。
それを嫌がってるのが父だった。父は姉2人をかわいがり、私を嫌っていた。
私も正直父のことは苦手だった。短気な父は定職に就かず、ほとんど家にいて、母と喧嘩が絶えなった。私は母を虐めるなと仲裁に入ったこともあった。もちろん仲裁に入っても何もできず、父に殴られた。そこから父は些細な事でも、私にだけ暴力を振るうようになった。辛かったが、私には母が居てくれたからそれだけで十分だった。
母と父は毎日喧嘩ばっかり。そして、ついに母は離婚に踏み切った。私は、とにかく父と離れれる事が嬉しかった。この後が本当の地獄の始まりとも知らずに、、、。私と姉2人は母に引き取られた。小さなアパートに引っ越し、新しい生活が始まる。
4人で笑顔で暮らしていこうと思った。私は家族が暗くならないように6歳ながらにしてとにかく笑顔を心掛けた。奇跡的に母も仕事が決まり働き始めた。
祖父母にも自由に会うこともでき、順風満帆なはずだった、、、。
そのころから、姉からの軽い暴力や性的暴力があった。
でも、私は母には言わなかった。いや、、、言えなかったが正しい。
初めての業種の仕事という事もあり、イライラしていたり、疲れ切っている母を見ていると何も言えなかった。母に言ったら姉に何をされるか分からない恐怖もあった。
黙っていればみんな笑顔で過ごせる、、それならば黙っていようと決めた。
そして、私が小学校低学年の時母に彼氏ができた。母はデートを重ね、次第に朝帰りが増え、同時に姉からの性的虐待が酷くなってきた。下の処理は全部自分がしていた。私は怖くなり、朝母が帰ってくるまで外に居ることが増えた。もちろん母には言っていない。そのころ児童相談所の人が、姉を保護した。育児放棄で近所の人が相談したらしい。私は保護されなかった。でも姉がいなくなることにホッとした。もう暴力に悩むことがなくなる。暴力はなくなったが、母が朝帰りをすることが減り、代わりに何日も帰ってこない日が増えた。日曜日が姉の面会をする日。その日だけ母とずっと過ごせた。平日は、母はずっと彼氏の家に入り浸っていた。ご飯を食べれないのは当たり前になっていた。電気代を払うのを忘れるのがが当たり前のように、部屋はほとんど暗かった。毎日泣いていた。でも学校では明るく過ごした。ムードメーカーとなり、小規模な学校に笑顔で通った。
そして学校の高学年の頃姉が帰ってきた。恐怖で手足が震えた。
また何かされる、、、その恐怖しかなかった。母は、姉が帰ってきてからは、ほぼ毎日家にいた。児相の人が急に来るから建前上家にいた。姉はおとなしくなって帰ってきた。暴力を振るわれない、、、不思議な気持ちだった。理由は簡単だった。母が居るからだ。児相の人が来なくなると次第にまた母は、彼氏の家に入り浸った。
姉は、待ってましたと言わんばかりに暴力を振るってきた。また地獄の日々が始まった。抵抗出来たらよかった、、でも私は一切抵抗をしなかった。抵抗すればもっと地獄が待っている。そんな姉だからだ。そんな恐怖を救ってくれたのが、祖父母だった。私は学校帰りは必ず、祖父母の家に帰った。そして帰りに母が迎えに来てくれて家に帰った。祖母にいつも110円をねだった。その当時の自販機で買えるジュースのお金だ。毎日欠かさず祖母は私の為に110円を用意してくれた。毎日毎日110円ちょうだいと言っていた。そのころから、祖父の真似をして、酪農の手伝いを始めた。酪農をしているときは、怖い気持ちを忘れることができた。動物が好きで、どんなに蹴られても、何をしても許せた。酪農5年目のこと。毎日虐待はあった。しかし、、、そんな時に私にも児相の方が会いに来てくれた。親にされた事、姉に受けた性的虐待、学校で学年131人から虐めを受けてる事を、親に言うなと言われても赤裸々に話して、その日のうちに保護が決まり、荷物もあまりない状態で保護されました。児相は、天国だった。殴られない、性的虐待もない生活に最初は違和感しかなかった。これが当たり前と思うまでは時間がかかった。当たり前の事が当たり前じゃなかった生活が当たり前に戻るまでにはかなり時間がかかった。そこからは、家族との時間はなく、児童自立施設杜陵学園に送致された。そこは規則、規律が厳しかった。でも普通の生活レベルらしい、、、。普通の生活が分からない。すべて謎のまま、謎の皆との共同生活が始まった。ご飯はみんなで一緒に食べるとか、洗濯機の使い方とか1から教えてもらいながらの共同生活、、、。どうすればいいかも分からない、何をすればいいかも分からなかった。共同生活も分からない。殴られないように、虐められないように、静かにくらしてた。皆がすごくフレンドリーでびっくり、、、。あたしの思っていた日常とは、かけ離れてていた日常だった。皆虐待されてきた経験があるから、気にかけてくれたけど、あたしが心を開くことは無かった。怖かった。裏切られるのが怖かった。皆が心開いて話してくれるのが信じれなかった。その時、初恋の先生と出会った。s先生、、、。交換日記をして、毎日居室にも内緒で来てくれた。交換日記は7冊になった。あたしの生きがいだった。皆と卒園式を迎えたかった。でも、、、親が引き取りを拒んだ。彼氏との暮らしにあたしは障害になると母は考えたのだ。皆との卒園式を迎える事が出来なかった。そして、先生も青年海外の協力隊を志願して夢が叶った。そして私は学園で長老として4年過ごした。ようやく卒園できる時が来た。やっと親が引き取りに承諾した。4年の片思いや、マイホームのような所を去るのには不安はあったが、何より虐待を受けても育児放棄をされてもあたしは母が大好きだった、、、。不安は沢山あった。でも心のどこかでは、変わってくれたのだろうという期待があった。しかし、その期待はその日のうちに壊れた。
待っていたのは奴隷のような生活と虐待の日々だった。食器を1枚でも洗い残してしまったりすると、殴る蹴るの暴力。そして、そのころから言うことを聞かないからと言って、片方の腕は手錠で繋がれ、もう片方の手錠は窓の所に繋がれ自由はなくなった。トイレはバケツにしなければなく、ご飯は手錠に繋がれたまま。わざとお茶ずけなどを出されこぼすと殴る、蹴るの暴力だった。手錠で繋がれていた為、抵抗は出来なかった。そして3か月過ぎた頃児相の人が面会に来た。今だと思い力いっぱい助けてと叫んだ。そして3か月振りに解放された。でも保護はされなかった。そして、その日の夜私は真冬の中、風呂場に監禁された。入り口は鎖で固定され開けれない状態になった。ご飯は子供茶碗の半分を1週間に1回。ガスも止められお湯も使えず、水で髪を洗いながら気が付けば半年監禁された。そして、着の身着のまま当時の彼氏の家に身を寄せた。救われたと心から安堵した。しかし、親と姉は諦めてなかった。
毎日当時持っていたプリカに30~40件の電話やメールが届いた。全部無視をした。しかし、捜索届を出す趣旨のメールを見て、彼氏や彼氏の家族に迷惑がかかると思い、一旦祖母の家に帰り、母に電話をし帰ってきた旨を話した。すると、祖母の家に、母と姉が来た。気を失うまで殴られ蹴られがつずいた。かすかに聞こえたのは、階段の下から懸命に止めようとする祖母の声だった。気を失う寸前母はお前が悪いとつぶやいた、、、。そして意識が戻った時、携帯の電池パックがなくなっていた。姉たちが持って行ったのだ。そして、また殴られるのを承知で祖母の家の電話で家族の縁を切りたいと伝えた。次何かされたら自殺をする覚悟で電話した。すると以外にも、良いよと言われ、あたしは彼氏の家に居候することにした。しかし、彼は当時から仕事をしておらず、彼の家族も誰も仕事をしていなかった。あたしは住まわせてもらうことに感謝をして、覚悟を決め援助交際をはじめ、若いなどの理由からかなり稼いだ。そしてみんなを養った。そして18歳と同時に風俗で働いた。援助交際や風俗は21歳までやった。元カレとの子供も元カレに言われるがままに中絶した、、、。嫌でもうつ病や様々な精神疾患があり、昼の仕事で働くことが出来なかった。学歴もなく採用されなかった。風俗や援助交際は、そんな能無しのあたしを受け入れてくれた。管理職も任せてくれた。
PTSDによりかなり端折っていますが、22歳で新しい彼氏ができ、元カレからの依存から脱することが出来、今は娘と旦那と幸せに暮らすことが出来ている。しかし、重度の精神病との戦いはまだあります。過去の出来事も今精神病として忘れることのできない爪痕として残りました。虐待で悩んでる皆さんはどうか、必死に児相や助けてくれる人などに頼ってください。自ら命を絶たないでください。本当にお願いします。あたしも、131人から毎日執拗に虐められ、帰れば家族から虐待され、死を考えたことは、本当に何十回とあります。でもこんなやつでも、本当に奇跡的に幸せになれました。中絶後、夜のお仕事の影響もあり、自然妊娠はほぼ可能性はないといわれ、でも奇跡が起こりました。だからこのお話が少しでも、目に留まったら奇跡を信じてアクションを自ら起こしてみてください。命を絶つことは本当に悲しいことです。つたない文章力であたしの人生の出来事を書いてみました。ここまで見てくれた皆様本当に、本当にありがとうございます。
何度も言いますが、これは実話であり、大げさに書くなどはしていません。むしろ、軽めに書いたほうです。
私の家は酪農家で、母と祖父はいつも忙しかった。私たちに構ってる時間は限られていた。でも精一杯愛情を注いでくれてると思っていた。忙しくも少ない時間で構ってくれる母が私は大好きだった。完全なママっこだった。
それを嫌がってるのが父だった。父は姉2人をかわいがり、私を嫌っていた。
私も正直父のことは苦手だった。短気な父は定職に就かず、ほとんど家にいて、母と喧嘩が絶えなった。私は母を虐めるなと仲裁に入ったこともあった。もちろん仲裁に入っても何もできず、父に殴られた。そこから父は些細な事でも、私にだけ暴力を振るうようになった。辛かったが、私には母が居てくれたからそれだけで十分だった。
母と父は毎日喧嘩ばっかり。そして、ついに母は離婚に踏み切った。私は、とにかく父と離れれる事が嬉しかった。この後が本当の地獄の始まりとも知らずに、、、。私と姉2人は母に引き取られた。小さなアパートに引っ越し、新しい生活が始まる。
4人で笑顔で暮らしていこうと思った。私は家族が暗くならないように6歳ながらにしてとにかく笑顔を心掛けた。奇跡的に母も仕事が決まり働き始めた。
祖父母にも自由に会うこともでき、順風満帆なはずだった、、、。
そのころから、姉からの軽い暴力や性的暴力があった。
でも、私は母には言わなかった。いや、、、言えなかったが正しい。
初めての業種の仕事という事もあり、イライラしていたり、疲れ切っている母を見ていると何も言えなかった。母に言ったら姉に何をされるか分からない恐怖もあった。
黙っていればみんな笑顔で過ごせる、、それならば黙っていようと決めた。
そして、私が小学校低学年の時母に彼氏ができた。母はデートを重ね、次第に朝帰りが増え、同時に姉からの性的虐待が酷くなってきた。下の処理は全部自分がしていた。私は怖くなり、朝母が帰ってくるまで外に居ることが増えた。もちろん母には言っていない。そのころ児童相談所の人が、姉を保護した。育児放棄で近所の人が相談したらしい。私は保護されなかった。でも姉がいなくなることにホッとした。もう暴力に悩むことがなくなる。暴力はなくなったが、母が朝帰りをすることが減り、代わりに何日も帰ってこない日が増えた。日曜日が姉の面会をする日。その日だけ母とずっと過ごせた。平日は、母はずっと彼氏の家に入り浸っていた。ご飯を食べれないのは当たり前になっていた。電気代を払うのを忘れるのがが当たり前のように、部屋はほとんど暗かった。毎日泣いていた。でも学校では明るく過ごした。ムードメーカーとなり、小規模な学校に笑顔で通った。
そして学校の高学年の頃姉が帰ってきた。恐怖で手足が震えた。
また何かされる、、、その恐怖しかなかった。母は、姉が帰ってきてからは、ほぼ毎日家にいた。児相の人が急に来るから建前上家にいた。姉はおとなしくなって帰ってきた。暴力を振るわれない、、、不思議な気持ちだった。理由は簡単だった。母が居るからだ。児相の人が来なくなると次第にまた母は、彼氏の家に入り浸った。
姉は、待ってましたと言わんばかりに暴力を振るってきた。また地獄の日々が始まった。抵抗出来たらよかった、、でも私は一切抵抗をしなかった。抵抗すればもっと地獄が待っている。そんな姉だからだ。そんな恐怖を救ってくれたのが、祖父母だった。私は学校帰りは必ず、祖父母の家に帰った。そして帰りに母が迎えに来てくれて家に帰った。祖母にいつも110円をねだった。その当時の自販機で買えるジュースのお金だ。毎日欠かさず祖母は私の為に110円を用意してくれた。毎日毎日110円ちょうだいと言っていた。そのころから、祖父の真似をして、酪農の手伝いを始めた。酪農をしているときは、怖い気持ちを忘れることができた。動物が好きで、どんなに蹴られても、何をしても許せた。酪農5年目のこと。毎日虐待はあった。しかし、、、そんな時に私にも児相の方が会いに来てくれた。親にされた事、姉に受けた性的虐待、学校で学年131人から虐めを受けてる事を、親に言うなと言われても赤裸々に話して、その日のうちに保護が決まり、荷物もあまりない状態で保護されました。児相は、天国だった。殴られない、性的虐待もない生活に最初は違和感しかなかった。これが当たり前と思うまでは時間がかかった。当たり前の事が当たり前じゃなかった生活が当たり前に戻るまでにはかなり時間がかかった。そこからは、家族との時間はなく、児童自立施設杜陵学園に送致された。そこは規則、規律が厳しかった。でも普通の生活レベルらしい、、、。普通の生活が分からない。すべて謎のまま、謎の皆との共同生活が始まった。ご飯はみんなで一緒に食べるとか、洗濯機の使い方とか1から教えてもらいながらの共同生活、、、。どうすればいいかも分からない、何をすればいいかも分からなかった。共同生活も分からない。殴られないように、虐められないように、静かにくらしてた。皆がすごくフレンドリーでびっくり、、、。あたしの思っていた日常とは、かけ離れてていた日常だった。皆虐待されてきた経験があるから、気にかけてくれたけど、あたしが心を開くことは無かった。怖かった。裏切られるのが怖かった。皆が心開いて話してくれるのが信じれなかった。その時、初恋の先生と出会った。s先生、、、。交換日記をして、毎日居室にも内緒で来てくれた。交換日記は7冊になった。あたしの生きがいだった。皆と卒園式を迎えたかった。でも、、、親が引き取りを拒んだ。彼氏との暮らしにあたしは障害になると母は考えたのだ。皆との卒園式を迎える事が出来なかった。そして、先生も青年海外の協力隊を志願して夢が叶った。そして私は学園で長老として4年過ごした。ようやく卒園できる時が来た。やっと親が引き取りに承諾した。4年の片思いや、マイホームのような所を去るのには不安はあったが、何より虐待を受けても育児放棄をされてもあたしは母が大好きだった、、、。不安は沢山あった。でも心のどこかでは、変わってくれたのだろうという期待があった。しかし、その期待はその日のうちに壊れた。
待っていたのは奴隷のような生活と虐待の日々だった。食器を1枚でも洗い残してしまったりすると、殴る蹴るの暴力。そして、そのころから言うことを聞かないからと言って、片方の腕は手錠で繋がれ、もう片方の手錠は窓の所に繋がれ自由はなくなった。トイレはバケツにしなければなく、ご飯は手錠に繋がれたまま。わざとお茶ずけなどを出されこぼすと殴る、蹴るの暴力だった。手錠で繋がれていた為、抵抗は出来なかった。そして3か月過ぎた頃児相の人が面会に来た。今だと思い力いっぱい助けてと叫んだ。そして3か月振りに解放された。でも保護はされなかった。そして、その日の夜私は真冬の中、風呂場に監禁された。入り口は鎖で固定され開けれない状態になった。ご飯は子供茶碗の半分を1週間に1回。ガスも止められお湯も使えず、水で髪を洗いながら気が付けば半年監禁された。そして、着の身着のまま当時の彼氏の家に身を寄せた。救われたと心から安堵した。しかし、親と姉は諦めてなかった。
毎日当時持っていたプリカに30~40件の電話やメールが届いた。全部無視をした。しかし、捜索届を出す趣旨のメールを見て、彼氏や彼氏の家族に迷惑がかかると思い、一旦祖母の家に帰り、母に電話をし帰ってきた旨を話した。すると、祖母の家に、母と姉が来た。気を失うまで殴られ蹴られがつずいた。かすかに聞こえたのは、階段の下から懸命に止めようとする祖母の声だった。気を失う寸前母はお前が悪いとつぶやいた、、、。そして意識が戻った時、携帯の電池パックがなくなっていた。姉たちが持って行ったのだ。そして、また殴られるのを承知で祖母の家の電話で家族の縁を切りたいと伝えた。次何かされたら自殺をする覚悟で電話した。すると以外にも、良いよと言われ、あたしは彼氏の家に居候することにした。しかし、彼は当時から仕事をしておらず、彼の家族も誰も仕事をしていなかった。あたしは住まわせてもらうことに感謝をして、覚悟を決め援助交際をはじめ、若いなどの理由からかなり稼いだ。そしてみんなを養った。そして18歳と同時に風俗で働いた。援助交際や風俗は21歳までやった。元カレとの子供も元カレに言われるがままに中絶した、、、。嫌でもうつ病や様々な精神疾患があり、昼の仕事で働くことが出来なかった。学歴もなく採用されなかった。風俗や援助交際は、そんな能無しのあたしを受け入れてくれた。管理職も任せてくれた。
PTSDによりかなり端折っていますが、22歳で新しい彼氏ができ、元カレからの依存から脱することが出来、今は娘と旦那と幸せに暮らすことが出来ている。しかし、重度の精神病との戦いはまだあります。過去の出来事も今精神病として忘れることのできない爪痕として残りました。虐待で悩んでる皆さんはどうか、必死に児相や助けてくれる人などに頼ってください。自ら命を絶たないでください。本当にお願いします。あたしも、131人から毎日執拗に虐められ、帰れば家族から虐待され、死を考えたことは、本当に何十回とあります。でもこんなやつでも、本当に奇跡的に幸せになれました。中絶後、夜のお仕事の影響もあり、自然妊娠はほぼ可能性はないといわれ、でも奇跡が起こりました。だからこのお話が少しでも、目に留まったら奇跡を信じてアクションを自ら起こしてみてください。命を絶つことは本当に悲しいことです。つたない文章力であたしの人生の出来事を書いてみました。ここまで見てくれた皆様本当に、本当にありがとうございます。
何度も言いますが、これは実話であり、大げさに書くなどはしていません。むしろ、軽めに書いたほうです。
