縁側から見える紫陽花が青さをより一層深めるとき、めぐみの雨が一粒一粒、光沢を放ちながら本州全土に降り注ぐ。それは何とも神秘的な光景で、中緯度である我が日本国でしか見られない美しく、少し儚い梅雨の季節である。

この素晴らしい梅雨の季節において、日本一不機嫌な顔をした少女が1人。
縁側のその向こう、
畳の部屋にて、寝そべっていた。
歳は5つくらいだろうか。
原因は彼女の髪質を見れば一目瞭然だ。
頭の上で遊ぶようにはねる髪の毛はいつだって少女をいらいらさせた。
__ああ、この悪しきくせっ毛をどうにか出来たなら。彼女の頭をその考えが支配していた。「これだから梅雨は嫌いなんだ。」
小さな少女は鼻を濡らす。
ふと今までの彼女の苦労が蘇ってくるのだ。
幾度となく、幼稚園のお友達から馬鹿にされた。母さんに申し訳なさそうにされた。
近所のおばさんに笑われた。
どれも彼女の小さな心を痛めつけるものだ。
普段強気な少女は雨せいか少し弱っていた。

ぴっちょん。ぴとん。とっとっと。

雨の音は嫌いじゃない。
雨により湿気が発生しているなんて知る由もなかった。

ぴとん。ぴとん。

紫陽花から雨粒がゆるりと落ちた。
そのうち世界の時が遅々と流れ、雨粒のように少女は眠りに落ちた。


「こら瑠衣こんなとこで寝たらあきまへん!」

少女の目覚めは最悪だった。
兄ちゃんが帰って来たのだ。
兄ちゃんは母さんの真似をして、少し高めの声で瑠衣を起こした。
その声が実におぞましい。その大きな目で兄を睨んだ。
「兄ちゃん、なんどるん?」
「アホ、もう6時やろう。」
時計を見ると6時を過ぎていた。
兄ちゃんが部活から帰って来る時間だ。
3時間も寝てしまった。
外はあいかわらず雨が降っている。
「ご飯、作ってへん。」
「バカ瑠衣。はよ起きて、作るよ。」
時々、こうして2人でご飯を作る。
両親は共働き。
瑠衣はよく、夕餉を作った。
母直伝の手料理はチャーハンだ。
だから今日もチャーハンにした。
兄はさほど役に立たない。
瑠衣の指示は聞くが、べらべらと喋りながら剽軽なしぐさをみせる。絵に描いたような「中学生男子」だ。外の雨は強さを増していた。

ご飯を食べている時も兄はべらべらと喋り続ける。なんの需要もない話を何時間と聞かせられる。でも実は嫌じゃない。
家族だからだろうか、彼の話に全く興味はないが、彼の声は雨音のように落ち着いたもの
だった。屋根裏で耳をすましたときに聞こえるそれである。
ふと、兄が黙った。
無言で瑠衣の顔を見やる。
何が起きたかと顔を上げると兄の大きな手に頭が包まれた。暖かい。
うっとりしたが、その後髪をぐしゃぐしゃにしたので気分は最悪だった。
「瑠衣も可愛そやな。くせっ毛。梅雨のせいでこんがらがってんで。女の子やのに。」
「兄ちゃんに言われた無いわ、あんたの方がえげつない。せやからみゆきちゃんに振られるんや。」
「告ってへんし」
兄はぶすっとした顔をした。
さっきまでの瑠衣のようだ。
そのままチャーハンにかぶりつくから変な顔のできあがりだった。

母さんの帰りは遅い。父さんはもっと遅い。
夜中の2時を過ぎないと家族全員は揃わなかった。それでも休日はキャンプや遊園地に連れて行ってくれた。楽しいか悪いかといえば楽しい家族だった。
夜が深まるにつれ雨も強くなる。不安定な雨音だったので不愉快極まりなかった。
しかし、眠気には逆らえず風呂に入るとすぐに寝てしまった。二階の子供部屋である。
兄は何か何かの本を読みながら私のとなりで
囁くように喋っていた。まだ喋るのか、と思うが兄はそういう人なのだ。
うとうとしていると、大きな手で頭を撫でてくれる。そうするとぐっすり眠れる。
小さいとき母さんに包まれたあの感覚に似ている。女の人の優しい手。暖かい雰囲気。
兄の手はその全てを兼ね備えていた。






朝、紫陽花の花びらが落ちると同時に
目が覚める。瑠衣の髪は依然としてくるくるだ。あまり意味もないがブラシでとかしながら下へ降りた。
リビングには朝食が並んでいる。
8時を回っていたが幼稚園に行くには十分だった。
「ぎゃぁ!遅刻するぅ!!!」
急な兄の声にビクッとした。
兄はパジャマ姿でばたばたしている。
「やべーーーー!制服ねぇーーー!」
どったんばったん。
朝から騒がしい兄だ。
「くぉら、やかましいわ蒼空ぁ」
母さんが怒鳴る。
「制服なんていいわ、
さっさと学校いきなさい。」
父さんも怒鳴る。
なんて騒がしい家族だ。
これが日常というのはおかしかろうか。
瑠衣とっては普通の、当たり前の日々だった。

____あの日までは。