私には弟がいる。
 父と母は毎日のように喧嘩をしていた。
 ある日、母が私たちにこう言った。
 「この家を出て、どこか遠い所へ行きなさい」
 玄関で見た母の顔にはアザがあった。疲労しているようにも見えた。
 母は私たちに生きる術を教えてくれた。
 「誰にでも謙虚でいること。家族を忘れないこと。そして――」
 続けて母はこういった。
 「やられたらやりかえすことよ」
 母は微かな笑顔を湛えていたように思える。母が気に入っているはずのエプロンに、ベットリと鮮明な赤い飛沫がついていた。それは、私が転んだ時に擦りむいた箇所から出る血のようだったし、鼻の穴から突然出てくる血のようだった。
 私は弟の手を引いて、どこか遠くへ向かった。

 今思えば母は父を殺していたのかもしれない。
 たとえはそうだったとしても、私は母を責めようとはしない。
 私たちと離れたことが、母親という存在にとってどれほどの苦しみであったかを私はよく知らないからだ。代償としては充分だろうか。
 当てもなく放浪していると、誰かとぶつかることがある。それが教官だったというだけだ。
 傘を持たない私たちに向かって、教官はこう言う。
 「君たち、強くなりたいかい?」
 なりたいかい、しか聞こえずに黙っていたら、教官はもう一度。
 「強くなりたいかい?」
 「強く、なりたい」
 弟が私よりも先に発言した。続いて私も頷いて見せる。
 教官は私たちを黙って傘下に入れた。
 「なら来ると言い。僕たちの世界へ」