驚いて振り向こうとした途端、脇から黒髪に黒い肌をした少女がヒョイと僕の描いた絵をつまみ上げた。

「なんだい、これは。小学生のお絵かきみたいじゃないカ……おっと、今のは小学生に失礼だったナ」

「マ、マナ⁉ どうしてこんな所に⁉」



僕が思わず叫ぶと、マナは暗くてもはっきり見える真っ赤な瞳で僕を見据えた。

「キーキー騒がないでヨ……お別れを言いに来たのサ。オレのご主人様との契約期間が終わったからネ」

「契約期間? どういうこと?」



マナは行儀悪く僕の正面の机に座り込むと、足をブラブラさせながら話始めた。

「よく人はオレのことを勘違いする。契約をすれば呪われるだの不幸が訪れるだの……人間の歴史が始まって以来、オレの待遇が良かったことなんて一度も無い。オレはただ、律義に契約を守ってご主人様に尽くしているだけなのにナ」

「契約……もしかしてマナは悪魔なのか?」



その質問に、マナは答えなかった。ただ憐れむ様な目をこちらを向けて話続ける。

「堀川って生徒を覚えてるかい? 中学と高校で同じクラスだった子だヨ」

「ああ、もちろん覚えてるよ。昨日偶然会ったところなんだ。そう言えばマナはずっと堀川君の側にいたよね?」

「ああ、お察しの通りの彼はオレのご主人様だった。彼は小学生の頃酷いイジメにあっていてネ。その時オレが契約を持ち掛けたのサ。オレと契約すれば、お前に必ず幸福をもたらしてやるとネ。そしてそれを彼は受け入れた」

「嘘だ……堀川君は決して幸福なんかじゃなかった! だって彼は中学の時もイジメられていたじゃないか!」



流石の僕も、今ならあの時堀川君がカツアゲにあっていたことくらい分かる。もしマナの言うことが本当なら、契約によって堀川君は加護を受けていたはずだ。

だが、マナは相変わらず憐憫の表情を浮かべたまま首を振った。

「オレは確かに契約を交わした。だけど、彼が『すぐに』幸福になるなんて言ってないヨ」

「そんなの詭弁だ」

「キミは相変わらず何も変わってないんだネ。人はそう簡単に幸福なれると思っているのカイ?」



そう言って、マナは教室の外の夜の帳に目を向けた。

「人が幸福になるには必ず代償を払わなくてはならない。オレは確実に彼が代償を払えるよう運命をいじった。確かに彼の中学時代は不幸だったかもしれない。だが今彼は一流大学に通い、多くの友人に恵まれて弁護士を目指している。だからもうオレはお役御免……契約期間満了、ってわけなのサ」

「……ふざけないでよ。堀川君は中学時代イジメられて不幸だったおかげで、今は幸福だって言いたいの? そんな理屈が通じるわけないだろ!」

「確かにそれは暴論だネ。彼がイジメに屈して捻くれてしまう可能性もあった。でも確かなことは、どんな試練や苦痛も決して無駄にはならない。寧ろ時には人を何よりも強くする……少なくとも、何もない真っ白な歴史を送ってきた誰かさんよりは何倍も、ネ」



真紅の眼光が僕を射抜き、ゾクッと寒気が走った。

「それは……僕のことを言ってるの?」

「他に誰がいるんだい? もしかして幽霊まで見えるようになったのカナ?」



僕は席を引き、必死にマナから距離を取る。

「やめてよ……違うんだ。僕だって必死に頑張った。だけどどうしてもダメだったんだよ! 僕には普通の人間の気持ちが分からない! どんなに努力しても、どんなに歩み寄っても、世界は僕を拒み続けて、それで、それで――」

「――そこを、悪魔に付け込まれタ」



マナの矢の様に鋭い言の葉が、僕の口を縫い付ける。

彼女は立ち上がり、金縛りにあったように動けない僕に容赦なく迫って――

「さっき、オレのことを悪魔なのかと尋ねたよネ。それは間違えだヨ。だって――」



「――『悪魔はニナの方だから』とでも言いたいの?」



その時。

四年ぶりに聞いたその柔らかな声を耳にして、魔法の様に金縛りが解ける。

振り向いた先、教室の後方に立っていたのは――誰よりも純白なあの思い出の少女。

彼女はまるで、昨日会ったばかりの様な人懐っこい微笑みを向けて言った。



「久しぶりだね、想太――ずっとずっと、会いたかったよ」