第1話 縁側の香りと愛する人の匂い

夏の長雨も終わり、縁側にたたずむ紅羽《あかばね》いつきは、若いころに発症した病魔に襲われるものの、一命はとりとめ自宅で療養をしていた……
 たいそうな病気ではなかったものの、体を使った激しい仕事はもちろんのこと、物を運んだりなどの、体を使った仕事全般を禁止されていた。
 進行性ではないにしろ、根本的な治療方法もないいつきの病気は、基本的にはだらだら過ごすしか方法がない……

「こうして、日の光に浴びていると、あの頃を思い出す……」

 いつきの暮らす地域では、ひとと妖怪の類とのつながりが若干あいまいで、お稲荷さんとのゆかりも強く、キツネも多く住む。
 こうして縁側で涼んでいれば、時々。里に下りてきたキツネがひょっこりと庭に迷い込んできたりもする。しかし、この地域の住人は、迷い込んできたからと言って追い払うのではなく、自然に任せるのだった。
 キツネが迷い込んできたのなら、追い払うことはせず。驚かせないのが当たり前。おなかが空いていれば、お菓子をあげたりなど、ある意味では餌付け行為なんていわれそうだが、極力。自然と共存している住人達である。

「そういえば、いつのも。自分のことを狐だってよく言ってたなぁ~」
「どう見ても、人間なんだけど……」

 いつきには嫁がいる。
 厳密にいえば“いた”に近いが、その子は学校のアイドルで、綺麗で手入れの行き届いた長い黒髪。そして器量のいい端正な顔立ちと、それはもう学園の代表みたいになっていた。

「最初は、からかわれてるんじゃないかと思ったほどだったけど……ははは」

 いつきとその彼女。のちに結婚するその子は、近ノ衛《このえ》いつのという名前だった。近ノ衛家は名門中の名門で、いつきみたいな一般の男がおいそれと近づいていいのかと思っていた。
 それでもいつのは、いつも一生懸命だった。特に、いつきと出会ってからは……

「今考えると、あの頃から、生き急いでいた感じがする……」

 いつきは、いつののことを思い出すと、どうしても涙が流れてしまう。
 それは、こうして触れることができない状況になってしまったというのもあったが、最後の最後まで、打ち明けてくれなかったという、悲しさも相まっていた。
 思わずウルっとしていたいつきのもとに、賑やかな子供が駆け寄ってくる。それは、いつのが残してくれた愛のカタチだった。

「お父さん~~どうしたの?」
「いやな。お母さんのことを思い出してた……」
「えっ? お母さん? お星さまになった?」
「うん。」

 この子、紅羽このみが生まれるのと入れ替わるように亡くなったいつのは、母親と同じ狐の耳のようなくせ毛が付いている。娘ということもあり、いつのがちっちゃくなったような感じすら覚える。

「ほんと、お前は、母親似だよ。特に、この特徴的なくせ毛は。ははは……」
「んん。」

 縁側でたたずむいつきの横に並んで座るこのみの頭をなでると、手に特徴的なくせ毛が引っかかり、本当の狐耳のように感じる。
 それは、母親のいつのも同じで、いつきに撫でられることが好きだった。

「もっと、お母さんの話して。お父さん。」
「そんなに聞きたいか? お母さんのこと……」
「うん! 聞きたい!」

 満面の笑みを浮かべるこのみは、まさにいつのが子供に帰ったような屈託のない笑顔だった。
 そんなこのみの笑顔に、興が乗ったいつきがふと思い出したのは、出会ってからしばらくして、初めてのキスのことだった。
 よりにもよって、このタイミングで? とは思ったいつきだったが、満面の笑みで待ち受けるこのみは、母の思い出を聞きたそうにしていた。

「じゃぁ、いうからな。いいか?」
「うん!」
「じつはな、お母さん。キスが上手だったんだよ。」
「えっ? キス?」
「そうなんだ。お父さんとお母さんが甘いキスをしたとき……」

 本来なら思春期真っただ中の子供に聞かせるような話ではなかったが、どうせ引いてるだろうと思いつつ、このみの顔を見ると……

『おぉっ! そ、そんなに聞きたいか?』

 目をキラキラ輝かせて、興味津々の様子が前にもまして増えているようだった。そんなこのみの表情にいつきは、無粋な考えを巡らせていたのが、おかしく感じた。

「ふっ。」
「どうしたの? お父さん……」
「いや、何でもない。続けるぞ?」
「うん!」
『あぁ。この子には、俺が話すことすべてが、母親なんだ……』

 それから、いつきは娘のこのみに、母親との出会いから話し始めたのだった……


 これは、人と妖狐との境界線があいまいなある町で、人に恋をしてしまった一匹の妖狐と人のお話。禁忌を破ってでも、貫き通した一匹の妖狐の純粋な想いと、ある少年との切ない想い物語をお送りします。