時雨邸まで後三分の一の所で、僕は異変に気付いた。

魔法で結界でも張られたかのように、周囲に人がいなくなっている。

ゴーストタウンと化した街中で、不気味な静寂だけが辺りを包み込む。

「どうしたの? 急に深刻そうな顔をして。屋敷まではもう少しよ」



時雨さんが僕の異変に気付いたが、周りの異変にまでは気づいていなかった。

「さっきから街に人の気配がないんだ。何だか凄く嫌な予感がする」

「言われてみれば確かに……」

「このまま『ラプラス』が僕たちを大人しく逃がすとは到底思えない。目立たない脇道へ移動しよう」



僕が提案すると、時雨さんは強情な顔付きで笑い飛ばした。

「冗談でしょう? ここまで来たら私の邸宅まで逃げ込んだ方が早いわよ」

「それが罠なんだ。きっと敵もそれを見越して、僕たちが逃走を正面から強行すると思ってる。だから――」

「嫌なものは嫌。隠れたいなら勝手に逃げなさい、私は一人で逃げるから。ここまで送ってくれてありがとう」

「ちょっと時雨さん! 待ってよ!」



彼女が素っ気なく僕に背を向けた……その時。

「……ねえ、何か聞こえない?」



彼女が疑問符を浮かべて空を見上げる。

確かに聞こえてくる。飛行機の音なんかじゃない、ついさっき聞いたことがある。

そう、それはまるでこの世のものとは思えない美しい歌声の様な――


【ドゴッ!】


凄まじい轟音立てて何かが目の前に着地した。

「な、何⁉」



アスファルトを割って沸き上がった砂埃が薄くなっていくと同時に、その全容が露わになる。

その正体は、先ほどのおぞましい聖女の怪物だった。

しかもさっきの個体よりも一回り以上も大きい。聖女というよりは触手を背負ったクリーチャーだ。

「あ……あ……」



恐怖のあまり言葉を失って立ち尽くす時雨さんを、聖女の怪物はガラスの様に無機質な目で見下ろす。

その触手が蛇の様に動くのを見て、僕は彼女の手を引いた。

「こっちだ!」



ゴオンッ! とアスファルトが抉れる音を背にして僕は彼女を連れて走り出す。

そのままビルとビルの隙間に駆け込み、角を曲がって狭い路地裏へと逃げ込んだ。

「はぁ……はぁ……どうして今更あの化け物が……!」



必死でパニックを抑える時雨さんに早口で告げる。

「多分、『システム』がこの街の住人に『今すぐ街から避難しろ』とでも通達して人払いをしたんだ。ある程度人目さえ消えれば、『システム』はいつでもあの怪物を差し向けるつもりだった……そういうことだと思う」



そして、それは同時に絶望的な事実も内包している。

それはこの街が無人になった以上、あの怪物は今から無限に押し寄せてくるということだ。

つまり、まだ先鋒の一匹しか来ていないうちに強行突破するしか生き残る道はない。

その時、路地裏の頭上で何か重々しい音が鳴り響いた。

「こ、今度は何⁉」

「ウソだろ。こんな狭い路地に入って来れるわけが」



だが、金属質の衝撃音はどんどんこちらに近づいてきて――

やがて暗がりからおぞましく蠢く聖女が現れた。



背中から更に無数の触手を生やし、両脇の壁へ突き刺して這い寄る様は巨大な蜘蛛の様だ。