百合香とは、龍崎家の縁側で隣り合って桜を眺めた。寒く冷たい冬の終わり、重く冷たい空から温かな風が包み込む空にまるでピンクの絨毯を敷いたような淡い色が広がっていた。
『きれいね』彼女も言った。
さゆりと同じ言葉。
当時10歳だった琢磨さんは庭でボール遊びをしていて、しかし一人でサッカーをするのに飽きたのだろう、頭上に広がる桜の樹々を見上げてふと俺たちの方に振り返った。
『姉ちゃん、姉ちゃんのお腹の赤ちゃん"さくら"て名前にしようよ』彼は屈託なく笑った。
『さくら……素敵な名前ね』百合香は、その名前を現すようにきれいに大きく咲き誇る笑顔を浮かべ琢磨さんの頭を撫でた。琢磨さんはくすぐったそうにはにかみながら笑い、再びボール遊びを始めると、百合香はどこか哀しそうな表情で俺を見つめてきた。
『さくら。どうかしら』
『いい名前だと思うが』俺が答えると
『漢字は―――……そうね。
月の一日がはじまる“朔”に森羅万象の“羅”はどうかしら』
『なかなか凝った名前だ。何か意味が?』
『月と太陽が交わるとき、全ての万物に優しくあれ。はじまりの日、樹木が限りなく広がり、全てを包み込む強さを持ちなさい。
“朔”は始めの日、“羅”は森羅万象から。
強く、そしてそれ以上に優しくあれ』
実際にお嬢は母親から与えられた名前のように、強く美しく優しく育った。母親と同じように。強さは力ではない。
心の芯だ。
―――
―――――
そして今、俺はまだ見ぬ子に『夕霧』と名付けた。
「いい名前。あなたの言った通り、響きもきれいだわ」
キリがうっすらと涙を目尻に浮かべながら、まだ見ぬ子が宿る場所―――腹をそっと撫でた。
「いつかしらね。“夕霧”と会えるのは」
「そう遠くない未来だ」
キリは「ふふっ」と小さく笑い「”スペシャルドリンクでも飲む?」と悪戯っぽく聞いてきた。
俺は肩をすくめて「マムシドリンクより効きそうだ」と苦笑い。
キリを背後から抱きしめたまま会話をしていたが、その場を老夫婦が通りかかり
「あら、仲良しだこと」と婦人の方が微笑ましいものを見るように俺たちを見ていて
「若者はいいね」と夫の方もおっとりと笑った。
慌ててキリから離れたが、老夫婦たちはその場を通り過ぎ、“日本海の海”の方へ足を向けていた。
彼らからみたら俺たちは“若者”の部類に入るのだろうか。
その遠ざかっていく夫婦を眺めながらキリが
「あんな夫婦のようになりたいわね。
私たちがおばあちゃんになっても、おじいちゃんになっても仲良しで」
そう呟いて、だけどすぐに首を捻ると
「でもあなたはそうならないかもね」とすぐに言い直した。
「何だ、俺がお前と別れると言うのか?」まさか“浮気”のことをさしているのか、と思ったが
「だって翔、あなた全然老けないもの。年齢不詳のバケモノ並だから」とキリは大真面目。
人をバケモノ呼ばわりされて、ちょっとムっときたが
「私だけ老けこんだらイヤだわ」と両頬を包み込み、「翔から若さのエキスを吸い取らなきゃ」とにっこり微笑まれ、俺の頬ははっきりと分かる程引きつった。
もう吸い取られてる気がするが?
「とりあえず、水族館の次に行きたいところがあるんだが。デートの続きだ」
俺はキリの手をとった。
はじめて、ちゃんと手を繋いだ。
キリの手は俺の記憶通り細くて長く、きれいだ。
「明るい所に行こう」俺が言うと
「明るい所?」とキリが不思議そうに目をまばたく。
俺は―――さゆりと百合香に指輪を贈ったことはない。贈ることを許される関係ではなかった。それこそ未来には今の深海を思わせる暗いものしかなかった。
けれどキリには―――あの輝かしくまばゆい光が似合う。
そう、光だ。とびっきり輝いて、とびっきりの光を放つ。キリの白くて細い指にあのダイヤはやはり映えるだろう。
「新世界に行こう」
俺はキリと手を繋ぎながら、歩き出した。
“深世界”の水槽の方を振り返らず、ただまっすぐに明るい出口だけを求めて。
俺“たち”の未来が輝かしいくあることを願って。
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