少しの沈黙があった後、キリは再び寂しそうに目を伏せ
「あなたは―――
翔は何でいつもそんな冷静なの」
冷静―――?俺が?
俺は―――少なからず動揺しているし、その動揺からかいつも切り返せることも簡単にできないでいる。
「本当に悪いと思ってるのなら、縋ってよ。
『許してくれ』て、縋ってよ。
本当は指輪なんて口実で、私はあなたを―――試した。
翔の浮気を知っても、最初から許すつもりだった。
離れないで―――そう願ったわ」
離れないで―――……
初めてキリの本心を見た気がした。
俺も―――キリが何者であっても、本当は離れたくなかった。それ程まで俺は、いつの間にかこの女を
愛していた。
「じゃぁ縋っていいか?みっともなく、縋っても…?」
より一層強くキリを抱きしめると
キリはちょっと悲しそうに…しかしうっすらと微笑を浮かべ、こくりと頷いた。
「俺“たち”の……キリ、俺とお前の子供が産まれたら、
『夕霧』と名付けないか」
俺の言葉にキリが目を開いた。
「お前の死んだ妹の名前とお前の名前から一文字ずつ取って。
お前の妹は死んでない。お前の中で、お前の胎内で、そして産まれてからも俺とお前の手で温かく大事にされて生き続ける。
それに『夕霧』だったら男でも女でも使えるしな。何より響きがきれいだ」
キリの見開いた目尻に涙の粒が浮かんだ。
――――
――
さゆりとは、動物園に行った。俺が動物園とかガラにも無いが、さゆりが『どうしても』と言ったから。
俺はさゆりを確かに愛していた。愛した女に尽くすのは極道の男の性質なのか、俺はさゆりが望んだことを出来るだけ叶えてやりたいと思った。
さゆりは小さな幸せを望んでいた。贈り物も要らない、俺との時間も強要しない、ただ会えるときは幸せだ、と。そんなさゆりが最後に望んだのが動物園だった。
鴇の檻の前でさゆりは『きれいね』と言った。『でもあなたの背中の刺青の方がきれい』とも。
『でもあんな檻に閉じ込められて可哀想…』とも。
最後の言葉はちょっと悲しそうだったが、さゆりは確かに微笑んでいた。俺はさゆりのその表情が好きだった。まるで聖母マリアを思わせる慈愛に満ちた、しかし控えめな微笑み。
今思えば、この時すでにさゆりの中でイチがいたのかもしれない。もしかしてその微笑みは『母性』だったのかもしれない。
『鴇って“朱鷺”とも書くんですって。何だか嬉しいわ。朱雀の私と、青龍の鴇の名を持つあなたと一緒になれる気がする』
“なれる気がする”とさゆりは言ったが、俺は“一緒になる”と思っていた。
しかしさゆりはもしかして、この時から俺たちが離れ離れになることを心のどこかで気付いていたのかもしれない。
『あの赤いくちばしと、どこまでも羽ばたけるきれいな羽。
あなたと一緒にどこまでも飛んで行けそう』
そう微笑んだ顏は忘れられない。
檻を抜け出て、俺たちは永遠に―――羽ばたく。
しかし、実際は片翼を失い、翔ぶこともできない、憐れな朱鷺だ。
俺たちは
つがいの朱鷺にはなれなかった。



